24.
1日が長い。朝起きて、身支度をすませ、朝食をとり、家を出る。扉を開けても大好きな人がいないことは百も承知だから、なんとなく、わざとテンションを上げて、元気に笑う。それでも時間は穏やかな波を作り、楽しいこともあるし、心から笑える。けれどもベースを出る時に、今日も一日が無事に過ぎた、とほっとして。その長さをうんざりする気分で改めて感じたりする。
そうかと思えば、何かに熱中していると、あっというまに時間が過ぎていて、びっくりする事がある。一昨日の水曜日、3時過ぎからベースの床板を磨き始めたベリルを何気なしに手伝い始めて。夕飯はできているから後はシンを待つだけだ、今日の夕飯はグラタンだ、などと初めはそうやって取り留めのない会話を2人で交わしていたら。自分の磨いた床板の面積が広がっていくにつれ、蒼羽は今何をしているのだろう、向こうは朝の何時だろう、と頭の中で引き算をしたりしている内に、お互い黙って自分の考え事に没頭していたらしい。5時を過ぎて、帰ってきたシンの扉を開ける音で、ベリルと共に我に返った。
立ち上がり、腰の痛みに眉をしかめて。茫然自失、といった表情のベリルと目が合った。途中からベリルも物思いに耽っていた事が一目で判り、そんな珍しい彼に驚いた。苦笑を見せて、それから磨きこまれた床を晴れ晴れとした笑顔で見渡す頃には、いつものベリルに戻っていたのだが。
「あ、そうだ。さっき思いついたんだけどさ。明日緋天ちゃん泊まりにおいでよ。その方が思いきり騒げるでしょ?」
「え、でも・・・」
「夜道を帰る方が危ないしね。何だったらお母さんに電話してあげるし」
明日の土曜日は、シンの歓迎会がベースで開かれることになっていた。1週間が過ぎて、そろそろ落ち着いただろうとベリルが判断し、仕事で関る人々との交流を、という名目で。休日にあたるけれど、その大量に用意する料理の手伝いの為に、午後から来ることにもなっていて。パーティーは夜の6時から。終わるのが9時を過ぎれば電車も少なくなる。それを考えて、ベリルの言葉に甘えることにした。
「じゃあ、お願いします。あ、でもどこで寝ればいいんですか?」
「何言ってるの。蒼羽の部屋に決まってるでしょう」
にやりと笑う彼に、どう返せばいいか判らなくて。恥ずかしさを抑えて口を開いた。
「・・・じゃあ明日はお泊まりセットも持ってきます。他に買ってくるものあったら電話して下さいね」
「了解。はい、どうぞお姫様」
優雅にお辞儀をしてみせて。ガラス扉を開けてくれるベリルの方が王子様のようだ。もともと金髪に青い目で、正統派なルックスなのに。
「ありがとうございマス・・・」
どこからそんな服を調達してくるのだろう。夏の間は暑かったせいか、普通の服を着ていたけれど。チャイナ服のような合わせの上着に、同系色で裾に切り込みと刺繍が入ったズボン。ここ2,3日、ずっとこのパターンの服で。けれども日毎に形も色も違うものを着ていて。似合っているのだからいいのだが、コンセプトは何かと聞いた初日に返ってきた答えは、日本のアニメの題名で、脱力した。
「気をつけてね」
「はい。お疲れ様でした」
にっこり笑うその笑顔に、どうこう言う気にもなれず。
同じように笑顔を返して、ベースを後にした。
「ベリル、肉も入れろよ。今見てるの、魚料理じゃん」
ソファで緋天が来るのを待ちながら、和食の料理本を眺めていると。だらしなくソファに寝転がってビデオを見ていたシンが、嫌そうな顔で口を開いた。
「・・・シン、魚も食べないと背、伸びないんだよ」
「ウソだね。だって欧米人は肉ばっか食べてるのに、魚食う日本人より、背が高いじゃん」
小憎らしい顔で得意げに言って、彼は覗き込んでいた料理本から目を離す。頭のいい所は蒼羽に引けを取らないのだが、その態度は本当に子供のままだ。
「なぁ。何であいつは、蒼羽に選ばれてんの?」
不服そうな顔で仰向けにまた寝転んで。彼は突然話題を変える。
「あいつ、って・・・そう言っていいのは蒼羽だけだよ。そういう言い方を君がしたら蒼羽は怒るよ、多分」
話題の中身は緋天の事だ。とりあえず、先に言葉を注意すると、判ってはいたが彼は余計頬を膨らます。
「シンは何で緋天ちゃんを避けるんだ?昨日だって緋天ちゃんが帰った頃見計らって、それで帰ってきただろ。大した用事もないのに」
蒼羽がいない、この1週間は。シンは緋天とあまり顔を合わせないように、あちこち移動を繰り返していた。予報士であるシンが緋天と仲が悪いというのは由々しき事態だ。かと言って無理やりそれを押し付けて、取り返しのつかない事になるのも困る。その内、緋天の柔らかな笑みに敵対心も消えるだろうと思い、放っておいたのだが。シンが避けているせいで、一向に好転する気配がない。
「だってなんかムカつくんだよ。あいつの顔見てたら。でも何かしたら蒼羽がキレると思って。それでなるべく顔合わせないようにしてんの」
悪びれもせずに、舌を出してそう言う、彼と。避けられている事に気付いてしょんぼりする緋天の関係を、少しでも良くしようというのが、今日の歓迎会の真の目的でもある。
「だから、あいつって言わない。ちゃんと名前で呼ぶこと」
「・・・ちっ、仕方ねーな」
少し厳しく言うと、彼は一応了解の意を見せる。
「で?何で蒼羽は緋天を選んだんだよ?」
「呼び捨てですか・・・。君、なんていうか、あれだね、ある意味大物だよ。蒼羽より偉そう」
「いいから。早く教えろよ。何であんなに馬鹿みたいに大事にしてんの?」
「・・・。うーん、うまく言えないけどさ、何だろう、ほら、緋天ちゃんはもう蒼羽の一部になってるんだよ。緋天ちゃんがいないと、蒼羽は落ち着かないし、もし彼女が傷つけられたり、蒼羽を好きでなくなったら、きっと自分がまともに生きられない、って判ってるんだ。だから、いつも自分の目が届く所に置いておきたいし、離れていかないように、あれだけ大事にする」
シンに話していて、それが事実だと改めて確認した。恐ろしく、危うい床板。少しでも踏み外せば、一気に地の底まで届いてしまう。
「ふーん。精神安定剤みたいなもんか。何がそんなにいいんだろ?あんなガキくせーのにさ。オレ、同じ女ならアルジェの方がいいな」
寝転んだまま、今度は顔をこちらに向けて。シンがにやりと笑う。
その口から出た名前に、少しどきりとした。あの日以来、顔を合わせる事はあっても、誰かしら周りに人がいたので。挨拶を交わすか、仕事上の話をする程度の事しかしていない。
「ベリルもそう思うだろ?アルジェは美人だし。緋天みたいにトロくないしさ。お菓子くれるし。いい事尽くめじゃん。な?」
「な?って言われても・・・それにどう答えればいいんだよ」
シンがアルジェを気に入っている理由には、子供らしいものも含まれているが。確かに美人で人当たりも良く、仕事もしっかりこなすとなれば、誰の目にも魅力的だ。その内面は複雑だけれど。
「今日もさ、オレにプレゼント持ってくる、って言ってたし。気がきくよな、絶対緋天じゃそんな事思いつかねーよ」
顔をテレビに戻して、見逃した部分を巻き戻しながらシンが呟く。
「君は・・・そこまで言って、後で後悔しても知らないよ。緋天ちゃん、結構人気あるし、それにあの子の頭の良さと言うか考え方と言うか、それは叔父さんも驚くくらいなんだよ」
「はぁ!?オーキッドが!?冗談やめろよ」
リモコンをいじるのを止めて、シンの顔が再びこちらを向く。そこには驚きの表情。少し嬉しくなって先を続けた。
「嘘じゃないって。叔父さん、かなり緋天ちゃんの事気に入ってるしね。ここだけの話、大通りで緋天ちゃんが襲われた時の事後処理をさ、叔父さんが自ら指揮取ってたんだよ。情報が漏れないように、わざわざ自分で手を回したんだよ。念押しもしっかりしてさ」
「ほんとかよ・・・オレ、蒼羽がキレたから、あそこまで厳重に口止めされてんのかと思ってた」
身を起こし、呆然とした顔で言う彼の、緋天への見方がこれで少し変わる気がした。
「まぁ、それも少し関係あるけどね。でも、何だかんだ言って、緋天ちゃんがセンターに行く時は、ほとんど必ず顔を見に行ってるみたいだしね。マルベリーが緋天ちゃん係みたいにくっついてるのも、多分、叔父さんの命令だよ、あれ。そうでなきゃ、あそこまで知らないと思うよ。緋天ちゃんのスケジュール」
「何それ。お前はそれを知らされてないって事?」
少し真剣な顔になって、シンが手の中のリモコンを見る。
「いやさ、だから。そこまで表向きな辞令にする程じゃなくて。叔父さんが個人的に気になるから、マルベリーに仕事やりながらちょこちょこ緋天ちゃんの様子見てあげて、って言う位の軽さなんだよ。このニュアンス、判る?つまり、それを仕事にする程大げさにしたくない訳。それをしたら緋天ちゃんが四六時中見られてると思って、嫌になるだろうから」
シンの顔はもう完全に真剣なものに変わっていた。彼の頭の中では今、この話を裏付けする事例を探って、真偽を見極めているのだろう。
「・・・あのさ、じゃあ聞きたくないけど、まさか緋天が本部に召喚されてないのもそのせい?本部から調査が1回しか行かなかったのも?蒼羽が今回連れて行かなかったのも?」
見た目は子供だけれど、本当に目聡い。
矢継ぎ早に出された質問は、そのどれもが的を得ていた。
「だいたいはね。蒼羽が珍しく嫌がるせいもあって、叔父さんも張り切って徹底的に戦っちゃってさぁ。結局は蒼羽の意見を尊重してる所が大きいかな。何にせよ、蒼羽は緋天ちゃん関連の事はうるさくチェック入れるよ。今まで私達のやり方に、口出しなんかした事なかったけど」
「マジで?どっか、頭のネジ飛んでるんじゃねーの?蒼羽もオーキッドも。絶対おかしいだろ。過保護じゃん」
「だけどね、それ位やらないと駄目なんだよ。そうじゃないと緋天ちゃんが壊されそうだしね。興味本位で近付く奴もいるだろうから。身の安全も保障できないし」
「だから、さっさと本部に送れば良かったんだよ。一番初めに拾った時にさ。そしたらこんな面倒な事になってなかっただろ」
また不服そうな顔に戻って、シンが言う。
「だいたい、アルジェ呼んだのもオーキッドだよな。それでうるさい奴は黙らせよう、って事なんだ、違う?」
にやっと笑ってこちらを見上げる彼につられて笑みがこぼれる。
「はは。正解。あ、でもこの手の事は緋天ちゃんに言うなよ」
「何だよそれ。そこまで内緒にする意味あんの?」
「あるんだって。裏の事を把握するのは影のボスだけで充分。だから、絶対言うなよ。言ったら君の首が蒼羽に飛ばされるからね」
「・・・判ったよ」
蒼羽の名を出して言い聞かせると、大人しく彼は頷いて。
「よしよし」
「うわっ、やめろよ」
思わず手を伸ばして頭を撫でてやると、案の定、ものすごく嫌そうな顔で何とか逃れようとする。それが面白くてついつい力の差にものを言わせ、無理やりその頭を撫でる。
「やめろって!卑怯だぞっ、押さえるなよ、うー」
「ははっ、ああ、なんか反応が新鮮だなぁ」
「何しみじみ浸ってんだよ、放せってば!」
「こんにちはー。わ、ベリルさん何してるんですか!?」
シンが蒼羽と違い、素直に反応するので。あまりに楽しく。嫌がる彼を押さえていると、緋天が顔を出す。
「あ、緋天ちゃん。いい所に。ほらほら、シン、緋天ちゃんが来たよ」
「えぇ!?シン君、どうしたの?」
「うるせー、見るなっ。ベリルの変態!」
買い物袋とカバンを床に置いて、びっくりした顔でシンを見つめる彼女から、彼は顔を背けた。
「口の悪い子にはおしおきをしないとね。はい、くすぐりの刑」
「やはは、やめろって」
身を捩じらせて笑うシンを、ひとしきりくすぐってから。手を離し、呆然とする緋天の足元のビニール袋を持ち上げる。
「さて。それじゃ作ろうか」
「・・・うー、ベリル、てめー、このやろう」
「あ、緋天ちゃん、これ何?」
「・・・生ワサビです。っていうかベリルさん、シン君が」
袋からチューブ状の見覚えのない物を取り出して、緋天に問うと、彼女はソファのシンを気にする。
「ぜってー、復讐してやる・・・」
「いいんだよ。あれは・・・何ていうか・・・愛情の裏返しだから」
「ああ。そっか」
笑顔を見せて素直に頷く緋天の頭を撫でて。
「こら、緋天。納得すんなよ!!」
「ほらね」
緋天の名前を呼んで、抗議するシンに気付いて。
久しぶりに彼女の顔が輝くのを目にした。
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