21.

 

 最近、まわりの人々が慌ただしい。

 今日は9月の第4週、金曜日。

 明日の土曜日、自分は休みだ。けれどもセンターでは、1週間後にイギリスへと旅立つ蒼羽の、そのいない間の準備をする為に、多くの人が休日返上で仕事にあたるらしい。ここ数日は蒼羽も頻繁に外へ出掛けて行って、ベリルと向かい合って議論しながら、何やら資料を作っていた。

 そんな中、自分は黙々と、ベリルに手渡された大量の紙束を順番にパソコンへと打ち込んでいく。英語で書かれているので、内容を把握しないままワープロソフトを使い、延々とアルファベットを打ち込む、題名をつけて保存する、その繰り返し。

 この作業は、そもそも自分が言い出したのだ。

 ベースとセンターに置かれた大量の資料を、何故最新機器でデータベース化しないのか、と問いて。本部や他のセンターでは始めているが、ここではそれができる人間がいない、とベリルが答えて。じゃあ、自分がやります、と気楽に口に出した。家からノートパソコンを持ち出して、ベリルも蒼羽も、そしてアルジェも忙しい最近は、この作業の繰り返し。

 初めはベースでやっていた。

 そのうち、センターに元の資料が全て置いてあるのだ、とベリルが言って。パソコンと一緒にセンターに通う日々が続いている。いつもマルベリーがいる、大部屋の隅の机を借りて。ついでにどんな仕組みか理解できないが、銀色の金属で作られた、OAタップのようなものにパソコンのコンセントを差し込んで。その小さな銀色の箱から、電源へと伸びる線もでていないのに、電力は十分供給されていた。

 

 

「ん〜〜〜」

 一区切りついて、腕を上げて大きな伸びをしていると、パソコンの向こうにマルベリーが立っていた。

「緋天さん、もう5時ですよ」

「あ、じゃあ帰ろう、かな」

 にこりと笑ってくれる彼には申し訳ないのだが。わざわざ時間を教えに来てくれる、そんな親切にも。何だか笑顔を返す事ができない。原因は自分で判っている。蒼羽がゆっくりと自分に構ってくれる時間が取れないせいだった。朝、簡単にキスを与えてくれるだけ。夕方はいない事が多い。

「元気ないっすね。疲れました?」

 心配そうに、その高い背を屈めてのぞきこんでくる彼に、ようやく口元がほころぶ。首を振って、パソコンの電源を落とした。

「大丈夫です。今日、これ、ここに置いていっていいですか?重いから持ち帰るの面倒になってきちゃって」

「ええ、どうぞ」

 ぱちんと2つに折りたたんで、立ち上がる。今日は蒼羽はベースにいるだろうか、と頭の中は瞬時にそんな考えで満たされる。

「ついさっき、蒼羽さんが来てましたよ。一緒に帰られたらいかがですか?」

 ぼんやりとしていたところへ、マルベリーのその言葉が頭へと入った。目の前の彼を見上げると、本当ですよ、とばかりに頷いてくれる。

「自分、蒼羽さんの部屋までお送りします」

「ありがとうございます!」

 いつも何だかんだと世話を焼いてくれる彼に、笑顔と一緒にお礼の言葉が出た。蒼羽と一緒に帰れるというだけで、肩のコリや目の疲れもどこかへ飛んでいった気がして。足早にマルベリーと部屋を後にした。

 

 

 

 

 センターの中に蒼羽の個室があるとは今まで思いつきもしなかった。けれどもアルジェの私室があるのだから、当然蒼羽の私室もあるのだと考えつく。一度も足を踏み入れたことのないフロアを、マルベリーに続いて歩いた。もう1人では玄関まで辿り着けないだろうと確信が持てるほど、知らない場所を通り過ぎて。

「あの奥の、左のドアが蒼羽さんの部屋です。緋天さんなら簡単に入れるっすよ」

 そう言って、マルベリーは廊下の角で足を止めた。そこから奥は1人で行けという事らしい。さすがに今説明された扉が見える位置まで来ているところを迷う心配はないので、そこでお礼を口にして彼と別れる。

 

 高そうな、きれいに磨かれたその木のドアをノックする。

 思ったより音が響かず、もう一度叩いてみようかと考え直した。

「開いてる」

 低い声が面倒そうに放たれる。

 小さかったが、間違いなく蒼羽の声だと判り、鈍い銀色のドアノブに手をかけた。返ってきた声音からすれば、彼は忙しいのだろう。けれども一目顔を見てから帰りたかったので、少しだけ、と自分に言い聞かせて扉を押した。

「蒼羽さん」

 傾いた太陽の光が、窓から入り込んで。この部屋の持ち主が中央のソファに座っている事を教えてくれた。真横を向いていた彼がこちらに目線を向ける。

「緋天!?どうした?」

 瞬時にその顔が驚きに変わるのを目に収めて、少し嬉しくもなる。そして、彼が向かい合うソファには、見知らぬ人間が2人座って、同じように自分を見ている事に気付いた。

「・・・あ。ごめんなさい。お客さんがいるの知らなくて・・・」

 蒼羽しか目に入らなくて。

「用事とかじゃないので。お邪魔してすみませんでした」

 慌てて彼らに言い繕うと、急いで頭を下げて、そして蒼羽にもう一度目で謝った。勢い込んできた自分が恥ずかしくて仕方ない。

「っ。緋天。帰るな。もう終わるから」

 頬に朱が上るのを何とか留めようとしながら、ドアを戻しかけると、蒼羽が引きとめた。

「え、でも・・・」

 50代だろうか。頭の灰色の毛が薄くなった男性と。20代半ばの、砂色の髪の男性。彼らはその蒼羽の言葉に、明らかに不機嫌そうにその表情を変えた。

「いいんだ。話すことなんて初めからないんだ」

 蒼羽の柔らかいその言葉の前半部分は自分に。辛らつな言葉は彼らに。一気に言い放ったそれに、2人はぐ、と声を詰まらせる。どうやら蒼羽より下の身分らしい。

「でもお話の途中、でしょ」

 自分がいれば、2人にとっては侮辱になるのではないか。そう思い至って首を振る。本当は蒼羽の腕の中に飛び込みたいけれど。

「いえ。構いませんよ。私達こそお邪魔してしまって。どうぞ蒼羽さんの言う通りになさって下さい」

「え・・・」

 年配の男性が口を開いて、何故かそんな事を言い出す。けれども粘ついたその口調が、どうも嫌悪感を生んでしまった。蒼羽が眉をひそめて彼を見やってから、もう一度こちらを向いた。

「緋天。お前が帰るなら、俺も帰る」

 本当にいいのだろうかと躊躇しているとそんな事まで言い出して。じっとこちらを見る視線に、心の奥も見透かされた気がした。

「いいから。おいで」

 ふ、と目元をなごませて、そんな風に言われると。もう逆らいようがない。ふらふらとソファまで辿り着いて、蒼羽の横に腰を下ろした。

 

「ここまで1人で来たのか?」

「ううん。マルベリーさんが送ってくれたの」

 蒼羽の腕が腰をつかんで引き寄せた。優しかった目が細められて、またあいつか、と呟く声が聞こえる。そして嫌そうに、ちらり、と向かい合うソファへと目を向けた。

「まだ帰らないのか?言っとくが、お前を使う気にはならない」

「っ!!何故ですか!?彼と僕に能力の差はないはずです!」

 若い男が声を荒げる。大人しそうに見えたので、いきなり出されたその声に驚いた。怒りのせいなのだろうか、その白い頬は少し赤くなっていた。

「・・・成績だけで見ればそうかもしれないな。だけど、シンの方がお前より上だ。判ったら帰れ」

 蒼羽の出した声は、反対に落ち着いていて。そして多分、びっくりしてしまった自分をなだめる為に、腰にあった左手が髪を撫でた。

「判りません!納得いきません!!どこが違うのか教えて下さい!!!」

 怒鳴る、と言う方が正しいのだろう。彼は声を張り上げる。その必死さに、やはり自分は邪魔をしている気がして、いたたまれなくなった。

「・・・落ち着け。いいか、まずそうやって感情的になる所が駄目だ」

 意外にも蒼羽が穏やかな声を出す。ゆっくりとした動きで、長い指が耳の後ろの髪を梳いた。肌が粟立つ。

「それから、お前はマニュアル通りに動く傾向がある」

 蒼羽の言葉を聞いて、彼のこぶしが膝の上でぎゅ、と固まるのが見えた。

「シンは違う。もっと・・・感覚を研ぎ澄ましてるから、どんな事にも反応するのが早い。適当にやっているんだろうが、だいたい上手く収まる」

「まあまあ。だからと言って、あんな子供を使うことはないんじゃありませんか?もう少し、責任の持てる人間にやらせた方がいいと思いますが」

 青年が何も言い返さなくなって、横から年配の男性が口を挟む。

「お前に意見を言う権利はない。決めたのは俺だ」

 冷たく言い放った蒼羽は、相変わらず髪を梳く。その指が耳のふちをそっと撫でて、びくりと反応してしまった。

「緋天さんはどう思います?あなたも代わりの予報士は大人が務めた方がよろしいでしょう?」

 赤くなっている所を気にも止めずに、笑みを浮かべた男が自分に話しかけてきた。その声に含み笑いと媚のようなものが混じっていて。またしても浮かんできた嫌悪感を抑えて、どうにか口を開いた。

「え、っと・・・それって蒼羽さんが決める事ですよね?あたしは関係ないので」

 蒼羽の話によれば、イギリス行きの事を話された時に、もう代わりの予報士は決まっていたはずだ。何で1週間前になって、そんな事を言い出すのか理解できない。

「ですが緋天さんの安全にも関りますからね。どうでしょう?しっかりした大人の方が安心できるでしょう?」

 薄笑いを浮かべる彼に、どうにも困って。蒼羽を見上げると、耳に触れていた手が頭の後ろにまわった。そして少し強い力で彼の襟元に顔を押し付けられる。

「・・・緋天を利用するな。それほど腐ってるとは思わなかった」

 頭の上で、鋭い声が響いた。冷たいものが背筋を這う。

「あなたの大切な彼女が危険にさらされるのですよ!」

 表面的には穏やかだった男の声が、苛立ちを含んで聞こえた。蒼羽にこれだけ言われて反論するなんて、命知らずなのか、それとも周りが見えていないだけなのか。きっと蒼羽はあの冷たい目に怒りを湛えている。

「だから俺が決める。これ以上時間を無駄にしたくない。帰れ」

「・・・・・・随分と自信がおありですがね。そちらのアウトサイドが雨を惹きつけているんですよ。私たちの安全も考えて頂きたい。あなたは冷静な判断ができなくなっているのではないですか。そうやって、目の色を変えて片時も手放さないようですから」

 

 

 

 

 正直、このまま視線に射抜かれて、殺されてしまうかと思った。

 このセンターの予報士である蒼羽が、総会に出席する間の代わりは自分が務められるはずだ、と自信を持っていたのは3分前までだ。そして自分の叔父が、ここの重役である事と、その彼自身がその代役に自分を推薦してくれると言ったのを、大きな決定打だと信じていた。

 当の予報士である蒼羽とは、イギリス本部で何度も顔を合わせていたし、彼が自分より随分年下の人間を代わりに使う事に疑問を投げつけ直訴する事も、決して不可能でないし、それが変化を生み出すと思っていたのだが。

自分の優秀さを述べても、蒼羽は少しも表情を動かさなかった。無表情で押し黙っていたのに、彼女が現れた途端、それが一変して。そして声を荒げた自分にすらすらとマイナス点を述べて。それがゆっくり体を廻り、頭に刻まれていく間、隣の叔父が失礼な言葉を発してしまったのだ。

彼を失礼だと言うなら、自分も分不相応な事をしてしまった点で、同様に随分無礼だとは思う。けれども叔父の発言は、蒼羽の怒りを引き起こす程に、度を過ぎたもので。話に聞いていた溺愛する彼女の頭を抱えこんでから、こちらに鋭い視線を投げるその念の入れようには敬服するしかない。

何しろ、今から。

その溺愛する彼女を侮辱した人間に、罰を課すのだから。 

 

 

「緋天を危険に晒す為に、俺がシンを選んだと思っているのか?」

「ひ・・・っ」

 直視してはいけないと本能は告げる。けれどもその、あまりにも強すぎる視線から、もう逃れる事ができなかった。背中を冷や汗が流れた。

「そういう事だろう?お前が今言ったのは」

「・・・っあ、そ、そんな事はっ・・・」

 すっかり縮こまった叔父が何とか否定の声を絞り出した。ようやく自分が何をしてしまったのか気付いたらしい。

「わざわざ、緋天の為に、未熟な奴を、代わりに選んだ。そうだな?」

 一言ずつ、区切って。効果的に叔父を問い詰める。

「お前がそう主張した事はしっかり覚えておく。俺は緋天の為にも、この街の為にも最適な人間を選んだ。それに同意して決定を下したのはオーキッドだ。意見するならそっちへ行けばいい」

「ひ、あ、申し訳ございませんっ!!出過ぎた真似を致しました!どうか所長には何も仰らないで下さいっ」

 所長の名前が出て、叔父はまともな謝罪を口にした。冷ややかな目でそれを見やって、蒼羽が口の端を上げる。

 冷たく、見た者を凍りつかせる笑み。すでに自分たちは強い視線で体が固まっていたけれど、更に追い討ちをかけるそれに、もう自分は今までのキャリアも何もかも失ったのだと悟った。

 

「・・・蒼羽さん」

 半分、もう一人の自分が体から抜け出して、この場面を眺めているかのように感じて。蒼羽の口が次の言葉を放つためにゆっくりと開きかけた時。彼女の小さな声が、それを止めた。

「・・・もういいよ。あたしは怒ってない。だって本当の事だもん」

「緋天、何を・・・」

「蒼羽さんが一番いいと思う人を選んだのは、本当にそうだと思うよ。だけど、あたしが雨を惹きつけてるっていうのは本当の事でしょ?」

 彼が彼女を押さえていた腕をゆるめてその顔を覗き込むと。あろうことか彼女はふんわり微笑んで、蒼羽の言葉を遮って口を開いた。

「だからいいの。それはいいんだよ。怒ってない」

 そして、こちらを見て。少し眉をしかめて。硬い声で告げる。

「でも謝って下さい。蒼羽さんが仕事をちゃんとしてないって侮辱した」

「緋天・・・」

 冷たかった目が、彼女のふいの発言に驚いていて。そしてこちらも呆気に取られていた叔父が、いち早く反応した。

「も、申し訳ありませんっ!!いい加減な事を申しました!」

 再び頭を下げる叔父を、眉をしかめたまま見て。

「・・・蒼羽さん、もういい?まだ謝ってもらう?」

 真剣な目で蒼羽を見上げる。驚いたままだった彼は苦笑して首を振った。

「じゃあ、オーキッドさんに言って、この人辞めさせたりする?」

 その言葉に、びくりと肩を震わせた叔父をちらりと見てから、彼は面倒そうな顔で口を開いた。

「いや。だけどこれ以上無駄な手間をかけさせない内に、早く帰れ。次に馬鹿な事をしたら、その首はないと思え」

「はいっ。ありがとう存じます!」

 テーブルに頭がつきそうな程。叔父がその頭を下げるのを、本当に嫌そうに眺めて。心配そうな顔の緋天の髪の先を弄ぶ。

「判ったなら早く帰ってくれ」

 その言葉に弾かれたように叔父が立ち上がる。自分もその嫌悪の対象に含まれている事に、一瞬遅れで気付いて素早く立つ。

「貴重なお時間を頂き、ありがとうございました」

 頭を下げて扉に向かった。とんだ不始末を仕出かしてしまったと、今更ながらに後悔の念が駆け巡った。しかも叔父のおかげで、それに拍車をかけてしまったのだ。

「・・・勘違いするな。お前に見込みがない訳じゃない。今はシンの方が上だというだけだからな」

 背中に声が掛かる。無機質な中に、少しだけ穏やかなものが混じっていた。振り向くと、にっこりと微笑む彼女の髪を撫でながら、薄く笑う彼。

「・・・あ、ありがとうございます!!失礼します!」

 自分でもどうかと思うほど、声が上擦ってしまったが、とにかくもう一度頭を下げて、叔父の後を追い。

 

 柔らかく変化を遂げた、予報士の部屋を後にした。

 

 

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