20.

 

 昼休みの喧騒の中、蒼羽を探して、最上階の個室が並ぶフロアへと向かう。奥へ進むごとに騒がしさが遠ざかり、静けさが増した。自分が作り出す靴音が響いて、壁と天井に吸い込まれて行く。

「蒼羽?入っていいか?」

 木材で作られた重厚なドアを、一応ノックする。一拍おいても反応が無く、逡巡した後ドアノブに手をかけた。

「・・・いないのか?」

 目に入ってきた空間には蒼羽もアルジェも見当たらない。窓から入った光に照らされた室内は全く人気がなかった。

 踵を返して廊下を戻る。

「ベリルか?」

 角を曲がろうとした瞬間、背後に聞き慣れた声がかかった。振り返れば叔父が少し驚いた顔で自分を見ている。蒼羽の部屋の前で出した声が、すぐ近くの叔父の部屋にも聞こえたのだろうか。しかしそんなはずはない、と考え直す。このフロアの部屋はそう簡単に外の音が聞こえない。

「蒼羽はもう帰ったはずだよ。会わなかったのか?」

「ああ、ええ。どうやらすれ違いのようですね。私も少し仕事をしてから帰ります」

 何故だか言い訳めいた言葉を返してしまう。

「あ、下に行くならちょっと待ってくれ」

 嬉しそうに笑ってから、叔父の体が一度部屋の中へと消える。

「ついでにこれをアルジェに渡してくれ」

 その手には茶封筒。反射的に受け取ってから、その言葉の内容が歓迎しがたいものだと気付いた。

「本人に渡してくれよ。一応機密書類だからな」

 有無を言わせない口調で叔父が言う。こちらの心内に気付いていながら、わざとそうやって威圧的に言い放っているのだ。

「・・・はい。承知しました」

 何とかそう返すと、彼はくすりと笑いを漏らす。

「お前、鏡見てみろ。今の顔、蒼羽にそっくりだぞ」

「な・・・」

 思わず眉間に手をやれば、叔父の笑い声がさらに上がる。からかわれる事にあまり慣れていないものだから、不本意で仕方ない。

「もう行きますよ。これを届けないといけませんから」

 背を向けて、叔父の反応を見ないように足早に廊下を歩き出した。

 捨て置いた言葉に、背後で苦笑とため息が返ってきた。

 

 

 

 

 まっすぐに、アルジェの私室まで来たものの、正直、入室を躊躇ってしまう。誰かに頼めればいいのだが、叔父の事だからいつかはきっとばれてしまうだろう。その時の反応が怖くて、やはりやり遂げなくては、と思い直した。

「アルジェさーん、入ってもいいですかぁ?」

 廊下の向こう側から歩いてきた男が、その部屋のドアをノックして声をかけた。自分が行こうとしていたところへ、別の人間に先を越された。ほっとしたのと、気勢を削がれたせいで、思わずもときた廊下を角まで戻り、陰から様子を見守る。

「失礼しましたー」

 ドアの中へ入った男は、30秒もたたない内に出てきた。手にしていたトレイが消えているので、どうやら飲み物を届けただけらしい。それでも男の顔には、入るときには見えなかった笑みが浮かんでいた。

 彼のようにさっと渡して素早く戻ればいいのだと、頭の中で声がした。余計な事は一切口にしなくていい。相手を盛り上げることも、笑顔にする事もしなくていい。様子を伺う挨拶も社交辞令も必要ない。

「よし」

 それではお前の仕事にならないだろうが、と小さな声も聞こえたが、それを無視してドアに再び近づく。

 とんとん、と静かなノック音を作る。扉の材木は、蒼羽の部屋とは全く違う、どこにでも使われる材質だった。

「・・・はい。開いてます」

 くぐもった声が中から聞こえて、扉を開けた。何故これほど緊張してしまうのか、自分でも良く判らなかった。

「・・・」

 部屋の奥の窓の前で、こちらに背を向ける彼女が目に入る。手前のソファの前のローテーブルに、オレンジ色の液体が入ったグラスが乗せられていた。

 部屋に入った人間に目を向けず、外を向いたままだというのはいささか失礼ではないか、と腹立たしくなる。けれどもその背があまりに細く小さく見えたので、浮かびかけた言葉を飲み込んでしまった。

 

「・・・郵便です」

 やめろ、と。

 どこかで自分を制する声が聞こえたのは、声を発してしまった後だった。そんな冗談、相手を選んで言えよ、と。苦いものが全身を駆け巡る。

「・・・そこに置いて頂けますか?」

 笑って振り返るだろうか、それとも冷たくあしらうのだろうか、と心臓の動きを少しだけ不規則にして反応を待った。けれども返ってきたのは、ごく小さな、何かを抑えたような声。冗談だと受け取らなかったのか何なのか、とにかく彼女はこちらを見ることすらしない。

 そこで色々なことがどうでも良くなった。

 どこかに帳がかかっていくのが、痛いほど判る。当初の予定を思い出す。さっと渡して素早く帰る、それで充分なはずだ。言わなければいけない事を、淡々と言葉にのせた。

「一応、機密書類らしいからさ。中身確認してくれる?」

「・・・っ!?」

 声に反応したのか、言葉に反応したのか。

 彼女が、勢いよく振り返った。

 

 午後の光を反射する。

 銀の髪は変わらず美しく、だからこそ逆にアルジェは創りものめいて見えた。透き通りそうな白い肌。水色の、瞳。

 彼女が目を伏せる。

目に翳りが見えた。うつむく寸前に飛びこんできたのは、目に浮かぶ透明の粒。濡れた頬。

「・・・わざわざお運び頂いて、申し訳ありません」

 それは礼のつもりなのか。

 頭を下げるのは、瞳に浮かんだ涙を隠す為ではないのか。

「っ、・・・なんで」

 足元の床が。固い石材の床が、がらがらと音を立てて盛大に崩れ落ちていくような感覚にさらされた。

この場を逃げ出せるものなら何だってする。だれかれ構わず、通りすがりの人間を呪い、汚い言葉でわめき散らしたいとさえ思った。

息を呑んで、絞り出された声が到底自分のものだとは思えず。なんで、なんて馬鹿げた事を口走ったと自分も呪う。気付かない振りをすればいいのだ。彼女はそうされる事を望んで、目を伏せた、頭を下げた、礼の言葉を口にした。部屋に入ったのが自分でなければ、窓の外を眺める振りをし続ける事が出来たはずだった。

右手の指が、軽く持っていた封筒を、いつのまにか強く掴んでいた。これを渡さない事にはどうにもならないのだ。この奇妙な空間を逃げ出す事もままならない。

「・・・ありがとうございます」

 黙って差し出された手に、それを渡す。封ろうを剥がして、ものすごくゆっくりした動きで彼女は中身を取り出す。外さなければ、と思うのに視線はそれを追う。5、6枚の紙を細い指先が順に捲っていく。

紙の角に当てる指が、細かく震えていた。

だから、動作が遅いのだ。

そんな事、どうだっていいじゃないかと頭が警告を発する。気付いてどうする、彼女は無視される事を望んでいる。

「本部からの返答書類でした。確認致しました」

「そう・・・」

「ありがとうございました」

 うつむいた頭がまた下がる。

 そんな風に押し殺した声で、平静を保とうとしても、様子がおかしいと誰にでも判るではないか。自分以外なら、どうしていたのだろう。窓の外を眺めて無視できない、彼女より高位の人間なら。例えば、蒼羽や叔父なら。それから、緋天なら。

 誰もが一様に、どうした、何があったと問うだろう。蒼羽は無視するかもしれないが。それでもアルジェは彼に泣きつくだろうか。緋天は彼女自身も泣きそうな顔をして、話を聞こうとするだろう。叔父は微笑んで、落ち着かせて、ゆっくり巧みに話を引き出す。  

 

「・・・顔を上げて」

 

 お前は本物の馬鹿だろう、と。

 嘲笑う声もまた、言葉を発した後に追いかけてくる。

 びくりと震える彼女の首筋は驚くほど細い。下を向いたままの、その細い体が硬直したまま、沈黙を生んだ。

「顔を上げて」

 ため息と一緒にまた同じ言葉が出た。2度目のそれは、妙に自分に落ち着きを与えた。彼女の右手が上がって、目元をさっとかすめる。

「・・・っ」

 潤んだ瞳に一瞬我を忘れそうになる。どこを見るともなしに、茫洋とした目が見えた。

「それは、何で?・・・何があった?」

「・・・何も。何もありません」

 無機質な声が辺りを包んだ。

「目にごみが。余計なご心配をおかけして、申し訳ありません」

「・・・蒼羽が何か言った?何を話していたんだ?」

 思い当たるものはそれしかないのだ、今の自分には。目にごみが入ったなら、初めからそう言って笑えばいい。あまりにも不自然すぎて、それに触れる事すらせずに、自分の中からは言葉が出てくる。

「イギリスでの研修の話と、私の防犯対策についてです」

 

淡々と紡ぎだされる言葉。

こちらの質問を適当にかわし、答えたくない事は答えない。

どこを見ているか判らない視線。

生気のない瞳。

一部のもの以外は、全てを拒絶する。

 

 

これは蒼羽だ。

目の前の、この彼女は。緋天を知る前の蒼羽。

 

「・・・わかった。邪魔したね」

 悟った瞬間、自然にそんな言葉が口をついて出る。

 久しぶりの感覚。相手にした自分も空虚な気分に支配されそうになるのだ。それでも蒼羽を長年見てきた自分には、そんなものは最早、傷つく暇すら与えない。また頭を下げる彼女から離れて、部屋を後にする。

 

 

 笑顔の彼女は仮面。

 急に色んなものが見えてくる。

 このセンターで誰に対してもにこやかに振舞うアルジェは、偶像でしかない。その1段階、下の。笑顔の仮面を取ったものが、イギリスでの“氷姫”と称された態度で。それが少し前までの蒼羽に相当する。

 きっとそれが一番楽な方法のはずだ。

 けれどもここで働くには、それは少々やりづらい。いくら蒼羽という前例がいるにしろ、彼女は予報士ではなく研究者の一端に過ぎないのだから。そこで考えついたのが、笑顔の仮面だったのだ。それさえ被っていれば、誰とも衝突せずに、仕事がやりやすくなる。

 彼女に初めて会ったときに、気付くべきだった。中庭での冷たい態度は蒼羽そのものだった。

 

それに至る前。

きっと同類だと思っていた蒼羽が、彼女にないものを手に入れて、幸せに微笑んでいたから。傷つき、罵り、悔しい思いに蓋をして。その時点で笑顔の仮面を完璧に身につけた。

 

 

 そこまで一気に考えが行きついて。

 冷えたような感覚の体に、日差しが暖かい。

 いつのまにか、センターの外に出ていた事に気付く。

 叔父は知っていたのだろう。それは間違いない。蒼羽の不満げな顔、責めるような視線、言葉。それが思い起こされて、蒼羽も気付いていたと知る。彼は自分に何らかの対応を求めていた。

 

 何をしろと言うのだ。

 蒼羽と同じだ。けれども。長年見続けてきたにも関らず、蒼羽の闇すら取り除く事はできなかったのだ。さんざんちょっかいを出して、信頼は得ただろうが、彼を冷たい水から引き上げる事は出来なかった。

 苦い。体を鈍痛がゆっくりと廻って。酸素が足りない気がする。

 蒼羽に拒絶され、肩透かしを喰らい、こちらが泣きそうになりそうな、あの感覚。10年以上前の、歯痒さが思い出された。

 

長い年月、緋天に相当する人間を、待たなければいけないのだろうか。

 

      

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