18.
心の奥底で密かに恐れていた。
こうして蒼羽が自分と2人で話そうと言うのは、それは仕事の事ではないのだと、もう予測はついているのに。けれども仕事の話や世間話や、それこそ緋天の話題でも何でもいいから、できれば自分の予想している内容にならなければいいと、強く願ってしまう。
「急で悪かったな」
目の前のソファにゆったりと座る蒼羽は、テーブルの上に先程若い男が置いて行ったパンに手を伸ばして。そして言葉とは裏腹に悪びれた表情も見せずに言葉を投げた。
「どうしたの?緋天さんに関係すること?」
最後の悪足掻き。
笑顔を見せてお茶の入ったカップを手に取る。
「お前・・・それでいいのか。そうやって追い詰めて。疲れるだろう?」
ため息をついて、ひと口、肉の挟まったパンを齧って。蒼羽が眉をひそめる。
ああ、やっぱり。
蒼羽が言いたい事はそれだったのだと、見透かされて悔しいような、気付いた人間がいる事に泣きたいような。何もかも投げ捨てて晒して誰かに泣きついたり・・・そんな事できるわけがない。
「もう少し楽にやれ。全員にいい顔する必要あるのか?イギリスにいた時みたいにやればいいじゃないか。お前が潰れるだけだ」
蒼羽の左手がもうひとつのカップを取り上げて口元に運ぶのを、ぼんやり眺めた。何をどうしろと言うのだろう。もう今更やり方を変えるなんてできない。
「・・・シルファ様が教えて下さったのよ。私があそこを出る時にね。あのやり方では私が損をするから、嘘でもいいから笑ってやり過ごす方法を覚えなさい、って。実際こっちの方が穏やかだし、自然と味方がつくわ。ここでも上手くやれてるとは思わない?」
更に顔をしかめる蒼羽が乱暴にカップをテーブルに置く。
「俺にはそんな事言わなかった」
「だって私とあなたじゃ立場が違うもの!」
イギリスでの研修期間を終える時に、最高位の教師がそう口にした。その時の苦い気分が蘇って、抑えられず声を上げてしまう。
「あなたは頂点に立つ予報士でしょ?多少の事じゃ、誰も予報士を免職させるなんて思いつきもしない。だけど私は一介の研究者ですから。代わりなんていくらでもいるのよ。笑っているだけでいいなら、それでいいじゃない。何が気に入らないの?」
―――笑顔を武器にしなさい、貴女の笑顔は魅力的だから。
そう言って、微笑んで背中を押してくれた教師の言う事は正しかった。少し笑えば誰もが警戒心を解いて、仕事を進める上での独占欲や競争心を小さくさせる。そして仕事はやりやすくなる。
「お前が誰かに無理して笑っているのを見たら、気分が悪くなる。緋天はいつもお前との事を楽しそうに言うけど。それも嘘なのかと思ったら、ものすごく腹が立つ。緋天は本気で仲良くなろうとしてるのに」
冷たい声が体の奥底を突き刺した。
「・・・違うわ。緋天さんといるのは私も楽しいもの。それは本当」
惜しげもなく見せる笑顔にどれだけこちらが和んだか、賢い発言にどれだけ感心しているか。それは判って欲しかった。彼女と話をするのは何の苦痛でもないのだと。
「ならいい。それが嘘なら、お前を辞めさせようと思ってた。緋天が楽しそうだから。こっちに友達がいなかったから嬉しそうなんだ」
柔らかくなったその言葉に驚く。
「え?でもフェンネル君とかいるじゃないの。あとセンターにも何人か仲いい子がいるでしょう?門番にも」
近所のメリロット武具店の家族は、何かと蒼羽と緋天の話題を口にする。息子のフェンネルもかなり緋天と仲が良いように見えた。
「そうじゃなくて。緋天の歳に近い女がいなかったから。男だと色々話せない事もあるんだろう?ここの連中じゃ話も合わないしな」
苦虫を潰したような顔で蒼羽がこちらを見ていた。
確かにアウトサイドの流行やファッションの話は、蒼羽でも話すのが難しかったのだろう。彼の目には少しの嫉妬が見え隠れする。
「じゃあ私は緋天さんの友達として合格、かしら?」
「ああ。緋天がそう言うならそうなんだろう」
「何だか嬉しいわね。で?話はもうお仕舞い?」
手に持ったカップからお茶を飲む。少しの安堵と優しい気分に包まれて、ほっとした。見られたくない傷を無理やりに掘り返されてしまうのかと、そう思っていたから。
「とりあえずは。無理するなよ。・・・あとお前、あまり愛想振りまいても余計な人間引き寄せるだけじゃないか?帰りが遅い時、1人になるな。変なのがいるかもしれないし」
「何それ?・・・蒼羽からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。本当に変わったのね」
帰り道の心配までするとは、一体どういう風の吹き回しなのか。緋天と付き合って、彼は本当に人間らしくなったのだ。
「・・・緋天が大通りで連れて行かれたんだ。裏道に入れば人気も少ない。気をつけろ」
実際、蒼羽の言う通りで。あんなに人で込み合う大通りから、少し奥へ入れば、本当に人がいない。特にフェンネルの家の近くの小道は街灯がない部分もあって。怖いと思った事がないわけではない。けれども今まで何もなかったのだ。1人でも通れる。
「平気よ。それに護身術も習ったじゃない。私成績良かったわ」
「刃物で脅されたらどうする?」
緋天が襲われた時の事を思い出してなのか、蒼羽は不快な顔をこちらに向ける。
「・・・対処済みよ。見たいの?」
膝の上に巻きつけてある皮のバンドから、細身のナイフを抜き出す。ロングのスカートを捲ったというのに、目の前の男は顔色も変えず黙ってナイフを受け取った。
「・・・ああ。これならいいだろう、それなりに強度もありそうだ」
ほんの少しだけ。蒼羽はナイフを眺めて口角を上げる。切っ先に指を沿わせて嬉しそうに笑った。こちらにそれを返す時にはまた元の無表情。
「少しは色めき立ちなさいよ。ちょっと失礼じゃない?」
所定の位置にナイフを戻して、スカートを下ろす。普通の男なら少なからず反応を見せるだろうに。
「緋天以外興味ない」
あっさりと言い捨てた彼に、腹立ちながらも、それでは色めき立つ蒼羽の顔はどんなものなのかと興味がわいた。
もうひと口、パンを齧って。そして蒼羽は眉をひそめる。
「もう少し美味しそうに食べれば?」
「・・・不味い。ベリルの方が上だ」
見た目は普通なのに。そう思って自分もパンに手を伸ばす。
「別に不味くないわよ。特別美味しくもないけど」
口に入れたそれは、無難な味で。蒼羽がそこまでする程には思えなかった。
「普段何食べてるんだ?これも緋天が淹れる方がうまい」
飲み下すようにカップのお茶を傾けてから、変なものを見るような目線が自分に刺さる。
「・・・贅沢ね。確かにお茶は・・・私ももう少し上手に淹れられそうだけど。食べられない程ではないじゃない」
「・・・・・・ああ。食べられない訳じゃない」
そう言って黙々と、機械的に蒼羽がパンを食べ始める。
それに倣って、自分も手の中のパンを胃に収める事に専念した。
誰にも覗かれたくない、浮き上がりかけた記憶は、もう一度頭の片隅に追いやって。蒼羽が無理に聞き出さない事に感謝して、パンを口に入れる。それが今の仕事だから。
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