14.
腕の中で緋天が大きく動く気配がして半分覚醒した。
「・・・っ、う、っや!!」
絞りだすような苦しげな声に完全に目が覚めて、目を開けると緋天が背中をこちらに向けて腕の中で震えている。何かから逃げるように身を捩っていた。それを自分が背後から閉じ込めているせいで、夢の中の緋天に余計に恐怖を与えてしまったようだった。急いで体を起こして緋天の顔を覗き込むと、思った通り泣きながらうなされている。
「緋天。緋天」
背中を支えて体を引っ張り上げた。流れる涙を拭いながら、繰り返し名前を呼んで髪を撫でる。暴れる腕から力が抜けて、ようやく緋天の目が開いた。
「大丈夫だから。何もいない。誰もいない」
怯える緋天をなだめるのはこれで何度目だろうか。決まって知らない人間を目にしたように、すぐに自分を認識しない虚ろな視線を受け止める。
「・・・蒼羽さん」
放心したような表情の緋天がそう口にして、ようやく安堵のため息が落ちた。赤い目元にキスをして、生成りのカーテンの向こうが明るいのを目にする。
「起こし、ちゃった・・・?」
「気付いてよかったんだ。それとも緋天は起きない方が良かったのか?」
柔らかな髪を梳いて答えると小さく首を振って、体重をこちらへ預けてきた。しっとりと寝汗を背中にかいているのに、安心させる為につかんだ指先は驚くほど冷たくなっていた。
「緋天・・・シャワー浴びてきた方がいい。冷やすな」
「ん・・・」
エアコンの送風にむきだしの素肌をさらしたまま、暖かかった背中もどんどん冷たくなっていく。答えはしても腕の中から出て行こうとしない緋天の顔は見えなくて。
「風邪ひくぞ」
ぴたりと密着したままの緋天の滑らかな背中を見下ろして、どうしたものかと思案する。自分からくっついてくるその行動は素直に嬉しいが、緋天の体をこれ以上冷やしたくなくて。
「一緒に入るか?」
そう言えば絶対に1人で素早く浴室へ向かうはずだと確信して、耳元に囁いたのに。
「・・・ん」
どういうわけかそれに頷く緋天がいた。普段ならありえないその様子に、それほどまでに1人でいたくないのかと苦い思いがわきあがる。甘く愛しい気持ちも同時に広がって、言葉少ない緋天を抱き上げて部屋を後にした。
「ピアス」
リビングのソファで緋天の髪を乾かした後、ピアスを着けてやっていると、緋天がぽつりと声を出した。
「・・・もうひとつ穴、開けたい。蒼羽さん、また開けてくれる?」
「急にどうした?」
うつむいたままの緋天がまた小さく声を出す。
「だって・・・休みの日以外はいつもこのピアス着けてなきゃダメでしょ?蒼羽さんに貰った青いのもずっと着けていたい」
「っ・・・」
その言葉に軽く目眩を覚えて、そして嬉しい反面、違う思いが浮かび上がって口を開いた。
「・・・新しい穴を開けるのはやめないか?」
「え、何で???」
不服そうな声を出す緋天の右の耳を甘噛みする。小さく震える緋天の柔らかな肌をもう一度なめてから答えた。
「こういう事がやりにくくなるし。それにあまり傷をつけて欲しくない」
「・・・むぅ」
眉間にしわを寄せるその表情を見て、続きを口にした。
「その代わり、そのピアスにあの青いのを取り外しできるように。少し手を加えるのはどうだ?」
「どうやって・・・?」
「フェンにやらせればいい。今日、センターに行く前に寄って行くか」
「フェンさん?・・・あ、そういえばアクセサリー屋さんだったんだ。でも、そしたら皆の言うことわかんなくなっちゃうよ」
しゅん、と泣きそうな顔に急いでキスを落とす。緋天の言動に惑わされてばかりだと苦笑が漏れた。
「俺のがあるから。今日は外に行く予定はないし」
ピアスがなくても日本語を話す事はできた。ただ少し細かい説明的な話は、どうしてもスムーズに話が進まないし、長い間身に着けているので落ち着かないような気がして毎日つけていただけだった。緋天と何度か朝を迎えた時の感覚からすれば、着けていなくてもそれほど不便でもないと理解していた。
「それより。明日緋天は休みだろう?どこかに遠出しないか?」
何とかして緋天に笑顔を戻したくて。昨夜眠りに落ちる前に緋天をどこかに連れて行こうと思っていた事を口にする。
「遠出・・・?どこに行くの???」
「緋天の行きたい所。どこがいい?」
不思議そうに首を傾げる緋天の頭越しに壁の時計を見やる。6時30分。ベースに行くまでにまだ随分と余裕があった。
「ええ?夜からどこかに行くの?帰れなくなるよ?」
「明日は晴れだから。どこかに泊まればいい」
「・・・蒼羽さん、今日も一緒にいられるの?」
「ああ。だから、行きたい所はないか?あまり遠くでも困るけど」
頷いて答えれば、その頬に少し朱が差した。
「じゃあ、じゃあ・・・えっとねー・・・・・・遊園地」
目線を泳がせて小さくつぶやいたその様子があまりに可愛くて。思わず漏れた笑い声に緋天の顔がさらに赤く染まる。
「・・・やっぱ、いい」
「なんで」
恥ずかしそうに目を伏せてから、困ったようにまたこちらを見上げてくる。
「なんか蒼羽さんのイメージじゃない・・・」
「でも緋天は行きたいんだろう?何かあるのか?」
「夜、花火とかやるの。イルミネーションもすごいって聞いたから」
「じゃあそこに行こう」
「ん、でも・・・」
眉をしかめる緋天の唇を捕らえて、しばらくその甘い感触を味わった後、仕方なく自分のメリットを口にした。
「別に緋天だけの望みを聞いてる訳じゃない。今夜の事を考えて昨日は1回で寝かせたんだ」
「・・・・・・っ」
完全に朱に染まったその顔を首元に埋めてそれきり黙りこむ、その柔らかな髪を撫でてそのまま押し倒しそうになる衝動を押さえ込んだ。
朝の大通りは、昼間の賑やかさより少し穏やかな流れを作る。
どういう訳か朝から蒼羽に触れていないと落ち着かなくて。自分でもびっくりするほどに蒼羽の腕のぬくもりを求めてしまう。朝食をのんびり蒼羽ととって、いつもより早めにベースに出勤して、そしてフェンネルの所へ寄る為にベリルのからかいを背に受けながら、蒼羽の手をしっかり握って大通りへとやってきた。
「こんな早い時間にここに来たの、初めてかも・・・」
人の波はゆるやか、食べ物以外のテントはあまり見当たらず。
「フェンさん、おうちにいるんだよね?」
「ん。この時間ならいるだろう」
昨日からかなり蒼羽を困らせてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいなのだけれど、面倒臭い等とは一言も口に出さず、むしろ今朝の寝起きの事を気遣っているのだろうか。いつもよりもさらに優しい眼差しと声音の蒼羽に目眩を起こしそうだった。
「・・・あれ?いつもの道と違うの?」
見知った横道を、フェンネルの家へと続く道へ入った所で、蒼羽がさらに細い路地へと足を進めた。疑問を口に出すと蒼羽が苦笑する。
「店の方はまだ開いてないと思うから。家の玄関に回る」
「あ、そっか。2つ玄関があるんだ・・・」
フェンネルの家の浴室やベッドまで借りた事があるのに、そんな事も知らずにいた自分に蒼羽と同じように苦笑が漏れた。そうこうしている間に路地から明るい石畳の道へと抜け出た事に気づく。道の脇にはプランターが置いてあったりと、住宅街だと思わせた。
長々と続いていたクリーム色の塀の切れ間がようやく見えて、ためらいもせずに蒼羽がその中に入る。いきなり緑色の広い芝生の空間が現れて、奥には開け放された木製の大きなドア。
芝生の真ん中に赤い髪と、小さなうずくまった背中が見えて。
「っあ、ディルちゃん」
声をかけるとぴくりとその背中が反応して、振り返ったその顔に涙。
「・・・うー、緋天ちゃん。と、蒼羽お兄ちゃん」
恨みがましいとも言える視線を向けられて戸惑ってしまう。どうしたものかと蒼羽を見上げたら、笑みを浮かべた彼は慣れた様子で口を開いた。
「今日は何をしたんだ?」
「・・・ふんだ。蒼羽お兄ちゃんなんか嫌い」
「随分機嫌が悪いな」
思いっきり首を横に向けてそう言うディルに、蒼羽は怒りもせずただ笑って。聞き捨てならないと思ったその時、扉の奥から声が近づいてきた。
「ディルー。ディールー」
寝癖のついた真っ赤な髪を揺らしてフェンネルが庭へ出る。
「おわっ、蒼羽。緋天ちゃんも。どした、こんな朝っぱらから」
「お前に仕事。後でいいから。それ先にどうにかしてやれ」
物珍しそうににやりと笑ってからフェンネルがディルの背中を足でつつく。それをうるさげに払いのけるディルが可愛くて思わず笑いがこぼれてしまった。
「むう」
「こらこら。緋天ちゃんが笑うのも当然だっつの。そんな目で見んなって。ったく」
「やぁっ」
相変わらず上目遣いで自分を見つめるディルをフェンが唐突に抱き上げる。放せとばかりに暴れる彼女を押さえつける兄の顔には意外にも優しい笑み。
「いつまでむくれてる気だよ?さっさと謝らないと昼飯抜きになんぞ」
「・・・みゅう」
ディルの頬に流れる涙をフェンネルがなめとる。そんな優しい仕種に少なからず驚いてしまって。隣を見上げると蒼羽が意地悪げな笑みを浮かべていた。同じ行為を幾度か蒼羽にされたのを思い出してしまった。
「えぐ・・・ごめ、んっ、なさい」
「オレに謝られてもなぁ?お前がごめんなさいしなきゃなんねーのは誰だ?ちゃんと言って来い。な?」
ぽんぽんと背中を叩くとディルの目からさらに涙がこぼれ落ちた。それに優しく声をかけるフェンネルはいつもよりも少し大人びて見える。
「うぇ、だ、って・・・ママ、お、おこって、るもんっ」
「そりゃあ怒るだろ。せっかく作ったもの勢い任せにひっくり返されれば、誰だってキレるだろーが。今謝らねーと、ずっと怒られたままだぞ」
「やだぁ」
「嫌なら謝って来い」
「・・・うー、うん」
こくりと頷いたディルの頭をひと撫でしてフェンネルが彼女を降ろした。涙を溜めた目をこするディルの背中を玄関へと押す。
「よし、いい子だ」
振り返ってフェンを見上げるその不安げな目線に頷いてみせるとディルは家の中へと駆け出した。
「フェンさん・・・」
目の前で繰り広げられたホームドラマに、見慣れないフェンネルが参加して、なおかつ感動を誘う言動を見せた事に。かなりの驚きが湧き上がってうまく言葉を伝えられずにいると、横から蒼羽が口を開いた。
「・・・普段とのギャップに緋天が衝撃を受けている」
「何だよそりゃ」
「だ、だって何かフェンさんいつもと違いましたよっ」
「・・・失礼な。そういうなら蒼羽の方がおかしいだろ、絶対」
むっとした顔を見せた後、にやりとした笑みを蒼羽に向ける。
「ぬー。蒼羽さんはおかしくないもん」
その笑みが腹立たしくて思わず言い返すと、負けじとフェンが返した。
「おかしいね。そんな手とかつないでさー、ありえないし。しかも緋天ちゃん、ぬー、って何だよ、ぬー、って。笑わせてくれんなぁ」
「これはあたしがしたいから、蒼羽さんが合わせてくれてるのっ」
「へーえ?でも所構わずベタベタすんのは蒼羽がしてる事だろ?頭のネジ、どっか一本飛んだんじゃねーの?」
「・・・違うもん」
「違うって何がぁ?」
「とにかく違うの」
「ほら、そうやって具体的に説明できない所ですでに認めてる」
「うー」
「はは。潔く負けを認めればぁ?」
妙にからんでくるフェンネルに言い返す言葉も追いつかなくて、悔しい事に劣勢になっているのを覆せずにいると、隣にいた蒼羽がつないでいた右手を引っ張って。あっという間に腕の中に収まって、目の前には藍色のシャツ。
「フェン」
「うわっ。へいへい、わかりましたよ、っと」
頭の上で響いた声が鋭かったので、どうやら蒼羽がフェンネルを打ち負かしてくれたらしく。
「工房うるせーからオレの部屋でいーか?」
「ああ」
体が元の位置に戻されると、玄関に向かうフェンの背中が見えた。嬉しくなって蒼羽を見上げると、同じように微笑んで右目の端にキスを落として。何事もなかったかのようにフェンネルの後を追った。
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