11.
澄んだ青い空の下を蒼羽と手をつないで歩く。日差しは強いけれど風は涼しくて、日本の湿気の多い夏とは少し違うと実感させる。
日よけの為にかぶっているキャスケットのひさしの先に、センターのレンガの壁が見えた。周りを行き交う大通りの喧騒から思考は現実的なものへと戻される。
「・・・何時くらいに終わるかなぁ?」
「早く終わっても1人で帰るなよ?」
蒼羽が先回りして言いたかった事を押さえた。
「うん」
結局そう短く返して、前方の大きな建物に目をやる。しばらく来ていなかったせいなのか、それともアルジェと会う事への不安なのか、何となく気後れがした。
「いらっしゃい。緋天さん、大丈夫なの?」
緊張ぎみの緋天をつれて先日訪れたアルジェの部屋に入る。ここまで案内してきたマルベリーを通り越して、アルジェの視線は気遣わしげに緋天へ向けられた。ベリルが朝のうちに入れた連絡はしっかりと行き届いているらしい。
「すみません。予定を変更してしまって」
謝る緋天の顔色を観察するように見てから、ゆっくりと頷く。
「気分が悪くなったらすぐに言ってね」
「大丈夫です。ただの寝不足ですから」
そう言って笑顔を見せた緋天を、ほっとしたようにため息をついて見やってからマルベリーが頭を下げて踵を返した。
「それじゃ僕はこれで」
「あ、ありがとうございました」
その後姿に手を振る緋天の視線を遮って頬に手をやる。目を合わせて口を開く。
「・・・迎えに来るまでここで待ってろ」
「う、うん」
びっくりした顔の緋天の行き場を失った右手をつかむ。
指先と左目にキスを落として、ようやく波立った心が凪いでいった。
「じゃあな。後、頼む」
歩きざまアルジェに声をかけて部屋を出た。緋天よりも驚いた顔が目に入って愉快な気分になった。
「えっ、と・・・」
小さな笑みを浮かべて去っていった蒼羽を眺めるアルジェに、沈黙が気まずくなって独り言のように声を出す。
「・・・あ。び、っくりした・・・」
窓から入る午後の日差しに銀色の光を反射させて彼女が振り返る。
「・・・そこに座って。お茶、冷たいのでいいかしら?」
浮かんでいた驚きの表情を一瞬で消して。胸の内に浮かんだであろう思いをきれいに消して柔らかな笑みでソファを指し示す。手渡されたうす青いガラスのコップに入った茶色の液体を口に含む。さっぱりとした飲み口とほんのり甘い清涼感が、乾いた喉にしみこんでいった。
自分で思っていたよりも体は水分を欲していたようで。ごくごくとコップの半ばまで差し出されたお茶を飲んで、ようやく落ち着いた。ふと目線を上げると嬉しそうなアルジェの笑顔。
「緋天さんはおいしそうに飲んでくれるわね」
ふふ、と笑われて頬に熱が上る。恥ずかしさと、きれいな笑顔を目の当たりにして。
「ん・・・そうね。この10日間でだいたいの事はわかってるのよ。緋天さんについての資料は全部読んだから。・・・きっとね。その中には何で私達が、この世界の人間が、そこまで個人的な事を調べる権利があるのか、って。あなたが怒って当然の情報が含まれていたわ」
「え・・・」
突然声のトーンが落とされて。そうして紡がれた言葉を理解するのに一拍置かなければならなかった。
「それって、どう、いう・・・」
「緋天さんが思ってる程、私達は善良ではない、って事」
じっと。
水色の澄んだ瞳が少しも逸らすことなく、自分の目を覗いてくる。
先程まであった笑顔はそこにはなくて。
けれども何かをごまかしたり、媚びたり、取り入ろうとするような曖昧さもそこにはなくて。
まっすぐ。自分だけを見ている、真実。
いつも蒼羽から感じる本物。
「知られてるなんて、思いもしなかったでしょう?私の言ってる事、判らないなんて言わないでね。学校での成績はとても良かったみたいだから、判るでしょう?」
淡々とした口調。冷たいとさえ感じられる、その声。
調べられている。
自分の事がかなり詳しく調べられている。きっと自分だけでなく、家族や、親しい友達、その個人情報。
学校での成績まで知られているというのなら、本当に詳しく知られているのだろう。
「・・・何となくは、知ってましたよ?」
口を開くとまっすぐな視線が戸惑いを見せて揺れた。
「だって・・・お給料って形を取ってあたしが暮らしている事を社会に簡単に証明できるみたいだし」
手に持ったグラスから、水滴が流れ落ちる。
「蒼羽さんだって・・・人間1人の戸籍、簡単に用意できる、みたい、だし」
薄茶の綿のスカートに、いくつか色の濃い部分ができる。
「それができるなら、調べる事なんて簡単ですよ。・・・調べない方がおかしいですよね。ここの人達にとって、これだけ、得体の判らない存在」
するすると言葉はよどみなく飛び出して。
自分で言いながら、どこか頭の片隅で感じていた事が整理されて、それを事実として改めて認識していく感覚に戸惑う。
目線を上げると指先で右のこめかみを押さえたアルジェが視界に入る。少し眉をしかめたその表情が、微笑に変わった。
「・・・どうやら緋天さんは、私が思っていた女の子とは少し違うみたい。それだけ把握しといて私達に腹は立たないの?」
「うー・・・正直友達とかに迷惑かけてるかもしれないと思うと、嫌でしょうがないんですけど・・・でも、もう、元に戻れないんです。戻りたくない。自分でここに来る事を選んだので。蒼羽さんがいるから」
家族や友達、今まで関わりのあった人達。彼らには申し訳ないけれども、今の状態を壊したくなくてどうしてもそう思ってしまう。
「ああ・・・そっか・・・そうね」
どこかぼんやりとした表情でアルジェが少し笑顔を見せる。
それはとても切なげで何だか見ている方が泣きそうになる。
「あの・・・」
気になっていた事を聞いてみようと、思い切って口に出してみる。
「えっと、その、あたしが聞くの失礼だと思うんですけど。あ、答えるの嫌なら黙ってても全然いいんですけど」
不思議そうに見返してくるそのかしげた首筋に、さらりと銀色の髪が流れた。短く切られていてもそれはとても綺麗で。
「・・・アルジェさん、やっぱり蒼羽さんの事好きなんですよ、ね?」
何故だか申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「え?」
一拍置いて、彼女が少し気の抜けたような声を出す。
「あっ、違う、違うわよ?そりゃ、好きか嫌いか、どっちか聞かれたらもちろん好きだけど。違うのよ。緋天さんが思ってるような好きじゃなくて・・・」
天井を見上げてそれから本当に困った顔でこちらに顔を向き直した。
「・・・同じ空気を感じたの。お互いそれを判ってたから、イギリスにいた時は他の人と仕事するよりやりやすかった。・・・だけどこの前会った時に、蒼羽は変わってて・・・それで裏切られたような気がしたのよ今思えば八つ当たり以外の何でもないわ。本当にごめんなさい」
少し悲しげに顔を歪めて頭を下げる。
「っあ、え、やっ、謝らないで下さいっ、そんなつもりじゃ・・・」
突然の事に頭は回らなくて、うまく言葉を伝えられない。それでも彼女は自分の為に頭を下げてくれたのだと判って、後ろめたさに押しつぶされて、自分の子供っぽい言動を今更ながら後悔した。同時に大人のアルジェに申し訳なくなる。
「すみませんっ、あたしが変な事言ったせいで・・・本当、アルジェさんが謝る事なんてないですから」
必死で言い訳を紡いでいると、くすりと笑う声が上から降ってきた。気が付けばアルジェは立ち上がっていて、部屋の奥の大きな机に向かっていた。
「ありがとう」
そう言って振り向いた手には茶色の紙袋。それを小さく揺らしてみせて、がさがさと何かが入っている事を示した、その顔には優しい笑み。
「さて、と。今日はこれで終わり。込み入った話の続きは明日にしましょう」
「・・・え?」
「蒼羽が迎えに来るまで、緋天さんはここで休んでて」
意図がつかめず間の抜けた声を返した自分に、アルジェはまた微笑んで先を続けた。
「顔色、あんまり良くないわ。でも昨日の仕事で寝てない蒼羽を休ませてあげたいんでしょ?早く終わってもここにいろ、って言ってたじゃない。ベースに1人で帰らないでね。私が殺されかねないから。ゆっくりここでお菓子でもつまんでればいいわ」
「だ、って・・・それじゃ、アルジェさんが」
「あら?私とじゃ楽しくお茶会ができないのかしら?女の子同士の話をするのは嫌い?」
「え、そうじゃなくて」
急にいたずらを思いついたような笑顔で、自分の否定の言葉をさえぎっていく。
「それとも、私はもう女の子じゃないって言いたいの?」
「ちが、」
「そう?じゃ、付き合ってくれるわよね」
「う、あ、はい」
にっこり笑顔で言葉巧みに人を誘導する彼女は、よく知っている誰かに似ている気がした。
同じような輝きを持つ髪の持ち主と気が合うのではないかと。
そう、思った。
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