30.
薄い闇の中に、ベリルの険しい表情が浮かび上がる。緋天が家に帰った後、昨日何があったのかと問われた。話をするうちに、その表情は硬くなり、怒りを含んだものへと変化する。
それにつられて、昨日の出来事を思い出してしまい、ちらちらとプロットの顔が頭の隅をかすめて、自分も激しい怒りを甦らせた。
「・・・首元を隠していたけど。傷は深いのか?」
話を聞き終えて、黙り込んでいたベリルがふいに口を開く。
「そんなに深くない。だけど、他にも薄く切られてる」
鋭い声が低く放たれる。それを耳にしてベリルの表情から固さが徐々に消えた。
「そうか・・・とにかく未遂で良かったよ。そうでないと血の海を見る所だったな・・・」
蒼羽が一番激しい怒りを抱いている。
緋天を襲った連中に、めったに怒る事のない自分も腹を立てた。いつのまにか、自分の妹と同じように緋天を思っていたので、大事な家族を傷付けられた事に対する怒りは大きい。
しかし、それよりも遥かに大きな怒りを持ってしまった人間がいる。目の前の蒼羽からは、暗く冷たい感情が発せられているが、どうやら大きな波はもう過ぎたように感じられた。事のあらましを、自分に語ってみせることが出来るほどに。
「緋天ちゃんも、君も。だいぶ落ち着いているね。特に君は・・・。もしかしたら、緋天ちゃんが何か言った?」
蒼羽に怒りを抱かせるのも、逆にそれをなだめるのも。その感情の元は緋天しかいないと判りすぎる程に判っている。少し穏やかな気持ちになって蒼羽を見ると、当の本人はいつのまにか自分よりも柔らかい表情になっていた。最近は緋天と一緒にいれば拝む事ができる、優しい微笑をたたえて。
「・・・蒼羽。何かいい事があったのは判ったから。思い出し笑いは自分の部屋でやった方がいいんじゃないか?」
その幸せそうな笑みに、ついからかいの言葉を投げる。一瞬の内に蒼羽の口元から笑みが消えて、いつもの無表情が現れた。
「警備兵から何か連絡がある時は、多分お前に言ってくるから。後始末だけ上手くやってくれ」
街の人間に流れる噂話や、諸々の事務処理について言っているのだろう。無表情が背中を向けて2階に上がる。思ったよりも蒼羽が荒れていない事が、何より自分をほっとさせた。
もしも未遂で終わっていなかったら、蒼羽は壊れてしまい、何もかもが滅茶苦茶になる。そんな予測にぞっとしながらも、その危険はいつでも近くにある事に気が付いた。今の蒼羽には緋天が全てなのだから。
「緋天ちゃんは向かう所敵なし、だな・・・優秀な予報士を1人手に入れた。その気になれば何だってできる」
権力も武力も知能も。ついでに莫大な財産も。蒼羽に付属する大きな力を緋天は知っているだろうか。ふいに緋天の笑顔が浮かんで、心に暖かなものが生まれる。
「そんな事は思いつきもしないだろうね、あの子は」
知らず知らず、蒼羽と同じように口元が緩む。2階に続く階段に目をやって、蒼羽は自分の言葉通りに、本当に自室で思い出し笑いをしてる気がした。
「緋天?」
土曜の午後。6月の2週目に当たる今日は仕事が休みで。友達の家に遊びに来ていた。最近の蒼羽とのやり取りを話し終えると、何故か体から力が抜けた。
「どうしたのさ?急に静かになっちゃって」
京子が自分の顔をのぞきこむ。
「・・・なんかね・・・境界線を越えたのが結構あっけなかったなー、って思って。あんなにもうちょっと待ってて欲しいな、って思ってたのに。蒼羽さんも判ってくれてたし」
目の前の京子の表情が、ものすごく優しい笑みに変わる。その笑顔は友人の自分から見てもとてもきれいで、思わず赤面した。
「そんなもんだって。それに緋天は、その他の人に触られた嫌な感じが消えなかったんでしょ?正しい選択だったと思うよ、好きな人に消してもらうのが一番だよ。ってー、何赤くなってんの?こっちまで恥ずかしくなるでしょうが!!」
「だだだだってー!京ちゃんがきれいに微笑むんだもん!」
そう答えてから、本当に蒼羽の甘い声を思い出してしまって、さらに顔に血が上る。
「それ関係ないじゃん!本当は思い出し恥ずかし赤面のくせに!!」
「そういう事言うから、思い出しちゃったでしょー!!もう!京ちゃんのばかぁ」
側にあったクッションを抱え込んで、気持ちを静めようとする。それと同時に部屋のドアがノックされる音が聞こえた。部屋の主である京子の返事を待たずに、そのドアが開かれる。
「やあ、緋天ちゃん!久しぶりだねぇ!!」
「お父さん・・・着替え中だったらどうすんの?」
角刈りに色のついた眼鏡。赤いポロシャツに白いスラックスを身に付けた京子の父親が顔をのぞかせる。
「あ、おじさん。こんにちは」
「あぁぁ、緋天ちゃん!!おじさんは君に会うのが楽しみで、昨日は良く眠れなかったよ。どうだい?健康状態は良好かね?」
すばやく部屋の中に入り込んで、自分を押しのけてにっこり微笑んだ緋天の前に座る父親。その顔にだらしない笑みが浮かんでいて、娘として複雑な気分になる。
「はいー。とっても元気で幸せです!!」
緋天は満面の笑みを惜しげもなく目の前の中年男に披露する。
「そうかそうか。それは良かった。そうだ、アイス食べる?ハーゲンダッツがあるんだよー」
「わーい。いただきます」
両手を上げて喜ぶ緋天にますます気を良くする父親に、とりあえず少し現実に戻ってもらいたくて、言葉を投げる。
「お父さん。緋天のその幸せは『蒼羽さん』から与えられています。自分が緋天を幸せにしている妄想に浸らないように」
でれでれの笑顔が瞬時に引き締まる。その顔は娘の自分から見ても怖い。格好が格好だけに、100人中99人がヤクザの人間だと思うだろう。実際はただの大工の親父だが。
「・・・『蒼羽さん』とは、この前の写真の男だね?緋天ちゃん、君は何かに騙されているんじゃないかい?」
そのヤクザ顔にびびりながらも、緋天は答える。
「騙されてなんかいませんよー。だって、蒼羽さん、すっごく優しいし。頭いいし、かっこいいし、えへへ」
完全にのろけモードに入った緋天を目にして、父親が顔を引きつらせながらも表面上の笑顔を浮かべるのを目にした。
「はは・・・そうか・・・・・・今度おじさんにも紹介してくれるかな?その『蒼羽さん』を・・・少し確かめないとね、緋天ちゃんに釣り合う男かどうか」
「え、あ、そうですねー。いつか機会があれば」
後半部分、父親がぼそぼそと小さい声で言った言葉は聞こえなかったようで。緋天が笑顔でそれに答える。
「・・・お父さん、何する気?」
「なんだ、京子。人聞きの悪い事を。お父さんは緋天ちゃんの彼氏を見たくなっただけだ」
もう少し、本物の娘の事も心配するべきではないだろうか。しらじらしく答える親父に、ため息をついた。
閉じていたカーテンを開けて、夜の闇を見つめる。京子の家から帰ってきて。夕方から降り始めた雨は止む気配はなく、静かにその音を刻む。この雨は穴の向こうに流れて行くのだろうか。蒼羽は今何をしているのだろう。
結晶を取り出すと、そこにはごくごく薄く青い色が浮かぶ。
「・・・青は悲哀の色。あたしに反応してるだけ・・・?雨は流れないのかな」
ベッドに寝転がる。何かの手持ち無沙汰。落ち着かない。まるで大事な物を忘れて旅行に出かけたような、だけどそれが何か思い出せない時に感じる焦り。
「なんか、変」
雨の落ちる音が部屋に響く。少し涼しい風も感じる。
「なんか・・・淋しい」
蒼羽と一日会わないだけで、こんなにも心もとない気持ちになったのは初めてで。両思いになってからは、毎日会える事がとても嬉しくて、楽しくて。それでも休みの日を挟んで、これほど蒼羽に会いたいと思った事はなかった。
「どうしよ・・・蒼羽さん中毒だ」
蒼羽の顔を思い浮かべて、切ない気持ちに支配される。
「あ、携帯」
携帯を手にして、少しの間ためらう。本当は声が聞きたいけれど変な事を言い出してしまいそうで、メールを打つ事にする。
―――夕方から雨が降り始めたよ。この雨、そっちに流れるの?
当たり障りのない内容。短いメール。
ごろごろとベッドの上で携帯を手にしながら動いていると、電子音が鳴る。画面を確認すると、蒼羽からの返事が届いていた。
―――流れてない。こっちは晴れだ。
同じような短いメール。だけどそれはとても蒼羽らしくて。口元が自然と緩む。蒼羽が全く違う言語を読み書きしている事実にふいに気付く。
「蒼羽さん、すごいなぁ・・・」
ため息をひとつ吐き出す。
蒼羽は本当に自分に満足しているのだろうか。彼の慣れた仕種は、自分の他にもその柔らかな笑顔を向けられた女性がいた事を、静かに物語っている気がした。
じりじりと嫉妬の波に押されながら、不安な気持ちに駆られていると、枕もとに放った携帯からまた電子音が聞こえた。折りたたみ部分をのろのろと開けると、蒼羽から着信の表示。予期していなかった事に驚いて、焦りながら通話ボタンを押す。
「緋天?」
「そ、蒼羽さん?」
びっくりしすぎて上ずった声が出てしまう。
「どうかしたのか?」
優しい声が耳に響いて、なぜか泣きそうになる。
「何でもないよー。びっくりしただけ。蒼羽さんはどうしたの?」
「ん。声聞きたかったから」
蒼羽が自分と同じ気持ちだった事が嬉しくて。それなのに、なぜかまだ泣きたいような切ない気持ちに支配されたままだった。
「・・・」
「緋天」
少し低く響く、柔らかく甘い声。この声を間近で囁かれた女性はどんな人だろう。
「・・・緋天?」
「うわっ、はい!」
どろどろとした感情に侵されていると、沈黙をいぶかしんだ蒼羽の声に我に返る。
「どうした?」
「・・・え、なんかぼんやりしてた。寝不足かも・・・」
「じゃあ早く寝ろ」
「・・・うん」
心配そうな声の蒼羽に慌てて取り繕おうと、言葉を続ける。
「大丈夫。いっぱい寝るから。おやすみなさいっ」
「ん。おやすみ」
自分から切ったくせに。
まだ蒼羽の声を自分に向けて欲しくて。そんな考えを持つ自分が恥ずかしく思えて、眠ろうと目を瞑る。
甘くて優しい声。長くてきれいな指。自分を支えていた、力の入った腕。じっと見つめてくるワイン色の目。それが、以前は誰かに向けられていた。そんな事を気にするのはとても子供っぽいと判っていても、ぐるぐると頭の中を回って仕方がない。
「うー・・・なんか、嫌な子だ。蒼羽さんに嫌われちゃうよ」
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