28.
「あれ?ベリルさん、いないね・・・」
緋天が部屋を見回してつぶやく。カウンターの上にメモが置いてある事に気付いて、目を走らせた。
「どこかに出かけたのかな」
「・・・実家に帰ったみたいだ」
「え!?何かあったの?」
「妹の子供が生まれたから、見に行くって書いてある」
実際はもっとふざけた文面が書かれていたが、それを省略して緋天に伝えた。
横を見ると緋天が何か問いたげに自分を見ている。
「・・・もう少しここにいるか?」
「うん」
腕を伸ばすと、不安を抱えた表情に戻ってうなずいて、歩み寄ってきた。外はもう薄暗くなっている。
「家に電話した方がいい。心配する」
「お母さん?・・・うん、そう。残業してるの。んー、何時になるか判んない。う、ん、・・・大丈夫」
ソファに移動して、電話をする緋天の横に座る。その手から
「もしもし・・・?はい、そうです。ええ、申し訳ありませんが。今日中に仕上げなければいけないので・・・。帰りはちゃんとお送りします。・・・いえ、当然の事ですから。はい。・・・はい、失礼します」
驚いた顔の緋天に
このまま帰す事は、どうしてもできなくて。緋天の方もここにいたいと言うなら、落ち着くまでずっと腕の中に収めておきたい。
「今ので大丈夫か?」
「うん・・・ありがとう」
蒼羽の左手が髪をなで続けていた。
その腕の中で安心して、自分の体を預ける。体を洗った後も、微かに不快な感触がどこかに残っていて、それをどうにかして消し去りたかった。いつもなら、蒼羽の方から触れてくるけれど、今もまだ、朝と同じ様に蒼羽はキスをするのを止めているようだった。
思えば今日は一日中、蒼羽に何と言うか考えていたのだ。それをならず者達に邪魔されて、しかも、蒼羽以外の人間に唇を奪われてしまった。今、ここで蒼羽に嫌な感触を消し去ってもらわないと、家に帰っても嫌な気分が続くだろう。
「蒼羽さん」
「ん?」
優しい声が降りてきて、言うべきなのは今だと決心する。
「あのね・・・?えっと・・・その・・・」
「どうした?」
「えっと・・・蒼羽さん、ちょっと・・・キス、してくれる・・・?」
言い終えてほっとしたら、蒼羽がばっと身を離して顔をのぞきこんだ。ものすごく驚いた表情で見られて、頬に血が上る。
「・・・嫌なら、いいんだけど・・・・・・」
「なっ・・・!!」
そっと蒼羽の顔を伺うと、まだあっけに取られた表情をしていた。それを目にすると、どんどん気持ちが沈んでいく。
「やっぱりいい・・・変な事言ってごめんね」
うつむいて、恥ずかしさをやりすごそうとした。
その途端、蒼羽の左手が頬に触れて上を向かされる。微笑をたたえた蒼羽の顔が降りてきた。
甘い感触が一旦途絶えて、蒼羽が口を開く。
「・・・嫌なんかじゃない。ずっと緋天が言い出すのを待ってたんだ」
「うん・・・変だな、って思ってたら、京ちゃんが教えてく、」
言い切らない内に、唇を塞がれる。
深く、甘く。
全身から力が抜けていくのが判っても、それに抵抗する気はなく、その感触にずるずると引き込まれて行った。
緋天の唇から顔を離して、耳元に移動しようとした。
心地いい流れに逆らえずに、自分を抑える事も頭の隅に追いやっていた矢先。
視界に、緋天の細い首に巻かれた白い包帯が飛び込んできて、一気に頭が冷える。今、自分は緋天を傷つけた人間と同じ事をしようとしている。無理やりに押さえつけられて、緋天が恐怖を感じなかったはずはないのに。数日前も、自分に対してさえひるんだ様子を見せていたのに。
「悪い・・・今日はもう帰るか?」
ゆっくりと体を離して緋天を見ると、潤んだ目で自分を見上げていた。
「何で謝るの・・・?」
その目を見ただけで、抑えつけた感情が逆流しそうになる。
「・・・お前が嫌がる事は絶対したくないんだ・・・それなのに、抑えられなくなりそうだから・・・」
目を逸らして、気持ちを落ち着かせた。
「あいつらと同じ事をして・・・傷つけたくない。怖かっただろう?」
「違う!蒼羽さんは違うよ!同じじゃない、全然違う!」
急に声を上げた緋天を見ると、そこには怒りの表情。否定してくれるのは嬉しかった。けれども緋天が怖がるのは当たり前のことだと判っている。
「それでも思ってる事はあいつらと同じなんだ。きっと、緋天を怖がらせる」
「違うもん!!」
うつむいて、小さな声で緋天が先を続ける。
「あの人が触れた時・・・本当に嫌な感じなの。怖いし、気持ち悪いよ・・・。今も。・・・だけど蒼羽さんが触れても何も嫌じゃないよ」
「緋天・・・」
思わず手を伸ばして、頬に触れようとした。緋天がゆっくり顔を上げて真っ直ぐに自分を見つめる。その目から涙がこぼれ落ちた。
「体、洗ったのに・・・嫌な感じが消えない・・・嫌だよ。気持ち悪い・・・どうしたら消せるの?蒼羽さん以外の人に触られたくないのに」
その助けを求めるまなざしに、息を呑んだ。
緋天の泣き顔を抱え込んで、耳元で静かにつぶやく。
「途中で止められる自信ないけど・・・それでもいいのか?」
腕の中で小さく緋天が頷いたのを感じた。
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