21.

 

しばらく同じ体勢で髪をなでていると、いつのまにか緋天の体から力が抜けていた。

 顔をのぞきこむと、目を閉じて規則正しい寝息を立てている。

「・・・緋天?」

 小さい声で呼びかけても起きる気配がない。ここ数日の疲労と、緊張の糸が解けたせいだろう。落ち着いたせいで眠気に襲われたのだと判断する。少しずつ体をずらして、ソファから立ち上がると、緋天の体を抱え上げた。

 こうやって抱き上げるのは2度目。以前は顔色の悪い彼女を前に、半ば狂いそうな程の焦燥感に囚われていたけれど、今はどうしようもなく口元が緩む。その軽さに驚きもしているのだが。

「・・・え?」

 体が浮いた感覚に目が覚めてしまったのだろうか、緋天が眠そうな目を開けた。

「ええ?あれ、蒼羽さん?え?」

 自分が置かれた状況に気付いて、驚いた顔をする。下りようとする彼女にさらにしっかりと腕を回して、その抵抗を抑え込んだ。

「最近、ずっと、眠りが浅かったんだろう?今日はもう寝てろ」

 そう言って緋天を抱えたまま、2階に続く階段を上がる。

「え、いいよ、仕事中だもん。そんな事できないよ。下ろして」

「いいから。どうせやる事がない」

 慌てた声を出す緋天を制して、自分の部屋のベッドに緋天を寝かせた。起き上がろうとする、その肩を押さえてサンダルを脱がせる。

「蒼羽さ、」

 それでも否定の声を上げる緋天の横に、自分の靴も床へと放ってから腕を緋天の背中に回して並ぶ。

「なっ、え、何で?蒼羽さん!?」

「俺も寝る。昨日遅かったから寝不足だし。緋天が起きるなら起きるけど」

 微笑んで、断れないような言い方で。うろたえる緋天に答えた。背中に回した右手で、緋天の腰を引き寄せてさらに微笑んでみせる。

「・・・蒼羽さんー・・・。意外と意地悪・・・」

 そうつぶやいて、むくれた顔で自分を見上げるその顔は、際限なく甘い刺激を与える。つややかな髪をなでながら、額にキスを落として、それ以上の欲求を押さえ込んだ。

「もう寝るぞ」

「うー・・・、もう」

 腕の中であきらめた声を出して、真っ赤になっていた緋天が体の力を抜いた。髪をなで続けていると、緋天が眠そうな目を閉じていった。

 

幸福感に浸りながらその寝顔を眺める。満たされた気持ちで、両親の笑顔がふいに浮かんで、それに驚いた。今までは、両親を思い出す時、必ず暗い気持ちになっていたというのに。緋天の存在がそれを吹き飛ばして全く逆の気分にさせられる。

 愛しくて愛しくて、どうしようもない。緋天が自分の腕の中にいる状況が、とてつもない幸運だと思える。

 長い黒髪に指を這わせながら、どうしたら緋天が照れずに自分に触れてくれるだろうか、とぼんやり思案し始めた。

 

 

 

 

 さわやかな風が頬をなでて、夢の中から半分覚醒する。この上ない心地良さで、自然と風の流れてくる方向に寝返りを打った。腰の辺りに何かが当たる感触がして、後ろに引っ張られる。背中に暖かなものを感じて、なぜか安心した気持ちになった。

 体の前に投げ出した手の上を、別の何かが包み込んで、爪の上をそっとなぞっていた。

「にゃー・・・ねむいぃ・・・」

「まだ寝てろ」

 耳の後ろで響いたその声に、完全に覚醒した。目を開けると、自分の指の上に、長い指が重なっているのが見えて、心拍が急に跳ね上がる。

「蒼羽さん・・・?」

 もぞもぞと寝返りを打ち直すと、きれいな鎖骨が目の前に見えた。背中に暖かな手が置かれて、少し引き寄せられる。

「起きたのか?」

 頭の上から甘い声と、髪に唇が降りてきて、めまいがしそうになった。

「う、うん・・・今、何時?」

「3時半。あと少し寝てろ。5時になったら起こすから」

 目線を上げると微笑む蒼羽の顔が見えた。まぶたの上にもキスを落とされて自然と目を閉じる。そうすると、また眠くなってきて、目を開ける事が無意味に思えた。心地良さに体を預けて、蒼羽の手が髪をなでる気配を感じる。薄れていく意識の中で、このままずっといられたら気持ちいいだろうな、と思った。

 

 

 

 

「緋天。・・・時間」

 5時になって、名残惜しく思いながらも、緋天の頬に触れてささやいた。一瞬眉をひそめて、ゆっくりと緋天の目が開いていく。微笑を浮かべたその唇に引き寄せられて、口付ける。

「・・・ん。そう、うさ、ん。・・・起きる」

 途切れ途切れに聞こえた声に我に返って、緋天から一度離れて身を起こした。腕をついて起き上がろうとする緋天を引き上げて、座らせる。

「うー。結構ぐっすり寝れたぁ・・・。蒼羽さんは?」

 まばたきを繰り返しながら、緋天が両手で髪を整える。その仕草が可愛くて、もっと乱してやろうかと、そんな気持ちが芽生えるとともに。首を傾げる彼女に答えてやる。

「一時間ぐらい。あとは、起きてた」

「ええ?じゃあほとんど起きてたの?あたし寝相悪かった?」

「いや。お前の顔見てたら飽きないし」

 真面目な顔で答えると、緋天が顔を赤く染めてうつむいた。

「もぅ、蒼羽さんも寝るって言ったくせに・・・」

「だから一時間は寝た。寝てるのが勿体無いんだ」

「・・・変な寝言、言ってなかった?」

 額にキスを落として、赤くなった頬に手をやる。そうすると、ますます緋天の顔が赤くなって、それがこちらを煽るだけだと痛感した。

「なんか、蒼羽さん、意地悪っぽい笑いになってる・・・。むぅ」

「何も言ってなかったぞ。それより時間はいいのか?今日も迎えが来るんだろう?」

「あっ!そうだった。今日も外でご飯食べるのー。楽しみー」

 

 

 

 

「あ、来たわよー。また送ってくれたのね。本当、蒼羽さんっていいわぁ」

 祥子のはしゃぐ声に、前方の横断歩道に目をやって、娘の姿を確認する。その横には蒼羽が並んでいて、それだけでほっとした。不安定な様子の緋天に、蒼羽がついていてくれる、という事が、なぜか自分を安心させるのだった。

 横断歩道を渡り終えて、蒼羽が緋天の手を離して、足早に自分に近付いてきた。その顔には微笑が浮かんでいて、何か嬉しい知らせがあるのだ、と確信する。

「あの、少し離れて話を・・・」

 後ろの緋天を気遣って、小声で蒼羽が言い出した。それにうなずいて5メートルほど移動して、駅の構内に入った。

「問題は解決しました」

 早口に言い切って、蒼羽が笑顔を見せる。もちろん、緋天の事について言っているのだろうと思ったが、こんなに急に変化が起こるとは考えていなかった。半信半疑で、その笑顔に問いかける。

「解決って・・・あの子が怯えるような事は、もう無いのか・・・?」

「はい。夢の内容を全部思い出したので。・・・川に落ちた経験に恐怖を感じていたようなのですが、実際はそれを助けてくれた人間がいたそうです。その事は忘れていて、怖いと感じた事だけが強烈に印象に残ってしまったんですね」

「じゃあ・・・じゃあ、思い出した今は、もう、助けられた事が判っているから、恐怖を感じる事は無いんだね?」

 唐突に訪れた安堵感と、体の重みが抜けていくような感覚に、身をまかせて、目の前の蒼羽の笑顔につられて笑う。

「でも、どうして急に思い出したんだろう?あんなに怯えていたのに」

「詳しい話は、また近い内にお話ししますので」

 蒼羽が後ろを振り向いて、緋天と祥子に目を向けてみせる。

「あ、ああ。そうだった。今はゆっくり話せないなぁ・・・」

「もう怯えるものはありませんから。安心して下さい」

 歩き出しながら、蒼羽が小声でつぶやく。

「本当にありがとう。君がいてくれて、ものすごく頼りになったよ」

 同じように小声で答えると、蒼羽が首を振って笑った。

「いえ、僕は何もできませんでした」

「とんでもない。君がどれだけあの子の・・・」

 蒼羽がどれだけ自分達を安心させていたかを話そうとしたら、緋天がこちらに気付いて駆け寄ってくるのが見えて、言葉を切った。

「蒼羽さんと何の話してたの?」

「まあ、色々とね。男同士の秘密だ」

 我ながら上手い言い訳だな、と思って、苦笑がこぼれた。

「何それー?蒼羽さん、ホント?」

 いぶかしげな顔をして、緋天が蒼羽を見る。

「ん。そうだな。秘密だ」

「むー・・・」

「男同士の秘密なんてカッコいいじゃないの。知りすぎるのも考えものよ。変な事じゃないんだから。ね?」

 不満顔の緋天を祥子が上手くなだめた。

「じゃあ、これで失礼します」

 蒼羽が頭を下げてから緋天に歩み寄る。頬に手をやって額にキスを落として離れた。また軽く頭を下げて去って行く。ほんの一瞬の間に。

 

「今日はおでこなのね・・・。やっぱり私達が見てたらダメなのかしら」

 残念そうな顔をして、祥子が蒼羽の後ろ姿を見てつぶやいた。

「当たり前でしょ!昨日はお母さんが無理に言ったからだよ。もう」

「さあさあ、少し早いけど、食事に行こう」

「お父さん嬉しそうだし・・・。なんかいい事あったの?」

「あったあった。あぁぁ、今日は飲みたいなぁ・・・。イタリアンだし美味いワインを。車で来たのは失敗だった・・・」

「じゃあ、帰りにあたし運転していい?」

「「それは駄目」」

 嬉しそうな顔の緋天に、否定の声が祥子と2人で重なった。

 なんとなく、緋天にハンドルを握らせるのは怖い気がして。

「お母さんが運転するわよ。緋天ちゃんはおとなしくしてなさい」

「そうそう。お母さんに運転してもらうから。緋天はジュースでも飲んでなさい」

 

 

     小説目次     

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送