8.
「天敵?」
緋天がまた顔を曇らせる。それが少し気の毒に思って明るく答えた。
「うん、まあ天敵と言うのは変かもしれない。病気、かな。向こう側に行った時にかかる病気。死ぬわけじゃないんだけど」
「風邪とかそういうのですか?」
「・・・・・・気が狂うんだ」
そっと言葉を出す。無意識に緋天から視線をずらして。
そして、蒼羽の方は絶対に見ないように。
「おかしくなる。ずっと悲しんで泣いたままになったり、だれかれ構わず暴力を振るい続けたり。周りの言葉や人間は目に入らない。狂ったまま。どんな薬も効かない。一生そのままだ」
目を泳がせながら、緋天は静かに聞いた。
「・・・何が、原因ですか?」
彼女はちらりと蒼羽を見る。その視線に気付いて、蒼羽はさらに気難しい表情を作る。
「・・・雨が。向こうの世界の雨に触れるとこちらの人間がおかしくなってしまう。向こうの人間は向こうの雨に触れても平気そうで。こちらの人間の体にだけ、雨が毒になる」
「じゃあ。じゃあ向こうに行くのをやめればいいんですよね?」
「うん。皆そう思って穴に近づくのはやめた。誰も近づかないように、穴の周りに柵も作った」
緋天がほっとした顔になる。先を続けるために口を開いた。
「だけど、それで終わりにならなかった。1年位が過ぎて。ある日、村がある一帯に雨が降った。普通の雨だと思ってた。誰も疑問を持たずにいつもの様に過ごしていた。そしたら外に出ていた人たちが狂った。向こう側の雨に触れた時と同じだ。向こうの雨が岩の穴を通って、こちらに流れてきたんだ。皆パニックになった。雨を恐れて、雨を避ける生活を始めた」
緋天はうつむいて、それから何か思いついたように顔を上げた。
「でも布をかぶったりして雨にぬれないようにすれば?あと、傘させばぬれないと思うんですけど」
左右に首を振ってから答える。
「だめなんだ。石や木は雨を防げるけれど、布はだめだった。いつのまにかぼろぼろになって、とけていく」
「じゃあ、やっぱり家に閉じこもるしかないんですか?」
「普通の雨も降るよ?でも違いが判らない。しばらく、穴の周辺の集落で、雨を避ける生活が続いた。だけど、まだ続きがある」
緋天の目が、また先を促した。
「ある朝、雨が止んで、晴れ間がのぞいた。村の猟師が、2日前に仕掛けたわなを見に山へ出かけた。小さな獲物用に仕掛けたわなだから、仲間と出かけずに一人で見に行ったんだ。少しでも晴れてる間に仕事をしようと思ったから」
ことん、と手に持ったままだったカップをテーブルに置いた。
「村から少し外れて、しばらく歩いていたら、猟師は変なモノを見た。透明の、ゆらゆらした、熊よりも大きなモノが、猟師に向かってきた。この猟師は、1年前に死んだ猟師の仲間で。仲間が死んだ時に、岩のゆがみも見ていたんだ。それで穴の向こうから、雨と一緒に変なモノがやってきた、と思った。自分たちが辛い思いをして、生活しているのは、すべて雨のせいだからね。腹がたって、くやしくて。恐怖を忘れて、向かってくるそれに矢を放った。矢はその変なモノに当たった。効果があったみたいで、そいつはびくびく痙攣してる。猟師は無我夢中で、何度も矢を放った。矢がなくなって、相手も動かなくなった。気が付いたら、目の前にいた、それが縮んで。きれいな透明の結晶が残っていた」
小さな吐息をついた緋天に微笑んでやる余裕ができた。
「これで、むかしむかしの不思議な世界の話は終わり」
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