30.
普通じゃない、と思った。
蒼羽が、自分の前で涙を見せたのは何年ぶりだろうか。
しかもその理由は、彼が自分にもらした言葉から判断しても、たいして気にするような内容だとも思えなかった。
何か隠している。何か、蒼羽が涙を落とすほどの何か。
取り返しのつかない事が起こる前に、とりあえず、蒼羽が謝るきっかけを。緋天に対して抱えた不安を、解決するきっかけを。
そう思いついて、教えられた携帯電話の番号に、電話をかけたのが、一夜明けた、今日、日曜の朝。何度かけても、呼び出し音が鳴るばかりで。自宅の電話にかけても、それは同じで。
焦った気持ちを落ちつかせながら。午後になって、休日の予定だった門番をつかまえて留守番を頼んで。
緋天の家を訪ねた。
「本当に申し訳ありません。私の落ち度で、大事な娘さんに怪我をさせてしまいました」
「いえいえ、いいんですよ。あの子が勝手に捻挫したんでしょう?そんなに丁寧に謝られたら、こちらが申し訳ありませんわ」
「緋天さんのお加減はいかがでしょうか?」
「それがね、足が熱を持ったせいで、寝つけなかったみたいで。体の方にも熱がまわっちゃって。朝、様子を見に行ったら、うなされていたの。熱が高くて心配になったから、病院に連れて行ったんですよ。あ、嫌だ、誤解しないで下さいね、責めてる訳じゃなくて。あの子があんなに熱を出したのは、久しぶりでね、それが可愛くって。小さい頃に戻ったみたいで楽しいんですよ」
「・・・そうですか。じゃあ明日は欠勤なさった方がよろしいですね。では、私はこれで失礼致します」
「わざわざ来ていただいてありがとうございます。あらっ?えっとベリルさんでしたっけ?そのピアス。あの子と同じなの?」
頭を下げて、帰ろうとした自分の左耳に、緋天の母親が目をとめる。
「・・・ああ、これは、うちの会社で流行ってましてね。若い連中で同じ物をつけようと、以前作った物なんです。緋天さんが入社した時に、記念に差し上げたんですよ」
口から咄嗟に出てきたその言い訳に、彼女は嬉しそうに笑う。
「あら、楽しそうでいいわねえ。あの子、それを外そうとしないんですよ。その前につけてた青いのもきれいだったけど、それもお気に入りなのかしら?昨日の夜、『怖くて自分じゃ外せない』って言うから、外してあげようとしたの。そしたらね。『これは、外してくれる人がいるから取らない』って言うんですよ。変な子でしょう?これからもうちの変な娘をよろしくお願いしますね。うふふ」
おそらく。
緋天が口にした、ピアスを外してくれる人というのは、蒼羽の事なのだ。
こんなにお互いが惹かれあっているのに。
何故、こんな事になってしまったのだろう。
緋天と話す事ができずに、母親だけにあいさつをして帰ってきた。何も判らないまま、一日が過ぎる。朝、蒼羽は暗い目をしながらも、目を離せないアウトサイドがいるからと、疲れた顔で仕事に出かけて。帰ってからは、黙って夕食を食べて、すぐに自室に入ってしまった。
他人に無関心な蒼羽が、緋天と接して変わり始めた。
いい傾向だと思ったのに、たった3日で、歯車が噛み合わなくなって。
今、壊れかけている。
鍵は緋天だ。
彼女の回復を待つしか、今は何もできない。
もう大人だと思っていたのに。
蒼羽が、もろく、弱い、小さな子供に見えてしょうがなかった。
だから、今、自分はこんなに焦っているのだろうか。
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