26.
「ベリル!!」
ベースの扉を乱暴に開けて、いつかと同じように大声を出した。
たった2日前の事が、ひどく昔の事だったような気がする。いつも落ち着いて自分を迎えるパートナーは、どこにも見当たらなくて。変わりにカウンターに座った、顔なじみの門番が振り返りながら答えた。
「ベリルさんならさっき出かけましたよー・・・ってどうしたんですか!その娘、昨日のアウトサイドですよね。うわ、真っ青だ」
蒼羽が扉に背を預けて、腕に抱え直した緋天を見て、反射的に立ち上がる。
「悪い。そこのドア、開けてくれ」
あごの先で、カウンターの横の扉を示されて、慌ててそれを開ける。
「大丈夫なんですか?」
今までに見た事のない、焦った表情の蒼羽を目の当たりにして、自分も落ち着かない気持ちにさせられた。
「判らない。とりあえず横にさせる」
階段を上りながら蒼羽がつぶやいた。その声はとても弱く響いて。いつもは近寄りがたい空気を発する予報士と、一介の門番に過ぎない自分達の距離が短く感じる。彼は自分よりも年下の少年だという事実を思い起こさせた。できるだけ優しい声を蒼羽の背中にかける。
「ベリルさん、すぐ帰るって言ってましたから。大丈夫ですよ」
自分の部屋のベッドに緋天を下ろす。真っ青な顔をして、苦しそうに、浅く短い呼吸をくり返している彼女。細い腕に鳥肌が立っているのを見て、布団を緋天の肩まで引き上げて掛けた。
「・・・悪い。俺のせいだ」
つぶやいて、ベッドの端に腰掛ける。
今謝っても、どうしようもないのに。
何故あんな風に、馬鹿みたいに苛立っていたのだろう。罪悪感が体をめぐっていた。
もう一度顔をのぞき込むと、荒い呼吸は落ち着いていた。少しほっとして、緋天の額に左手を乗せる。その肌は驚くほど冷たくて。自分の体温が移るように、手のひらをそっと押しつけた。
泣き出したいほどの焦燥感に体の内側を焼かれた。
その感情をしまい込んで、緋天の顔を見つめる。左の耳たぶに、青い石が収まっているのを目にして、自然と手が伸びた。額から耳へ。指の甲でなめらかな肌と冷たい石の感触に触れる。
どうでもいいと思っていた。
他人が何をしようと、自分には関係が無い事で。
ほんの少しの、自分を大事にしてくれる人達が幸せに暮らせれば、それだけで良くて。その幸せを守る為に、仕事をこなしているのが当たり前だった。
アウトサイドなんて、全く関係がないのに。
初めはいつも笑っているその態度に偽善を感じたりしていたのに。
その黒い髪も、なめらかな肌も、やわらかな声も、心に居座る笑顔も。
全てが自分に向けばいい。自分だけが独占できればいい。
自分の行動が緋天の体を傷つけたのに、そのせいでこんなに後悔しているくせに。今なら。今の状態なら、全てに手が届く。
左手で緋天の肌をなぞった。
耳から髪。髪から頬。頬から、唇。
今の自分は。
きっと醜悪な顔をしている。
そんな事が判っていても、口元に笑みが浮かぶのを抑えられなかった。
何かに引き寄せられて、少しずつ、顔を寄せた。
彼女の近くへ。
少しでも、近くへ。
「・・・ん」
緋天の唇から小さな声が出て、我に返る。
彼女のその、柔らかそうな唇。欲していたそれを手に入れる前に跳ね起きて、緋天の顔を伺う。目をつぶって眉をしかめたその表情は、自分を非難しているようだった。
自分は一体何をしようとしていた?
その答えが判って、拳を固めた。自己嫌悪が駆け巡る。
「蒼羽さん?」
緋天が自分を見上げていた。まばたきをして口を開く。
「あたし、確か・・・貧血になって。・・・何で寝てるの?」
「悪い。俺のせいなんだ」
申し訳なさそうな顔をした蒼羽が口を開く。
その顔の向こうに、斜めになった天井。
「ええ?別に蒼羽さんのせいでも何でもないですよ。ただの貧血です」
今のこの状況が、とても恥ずかしくて。
「蒼羽さんが運んでくれたんですか?すみません、重いのに」
起き上がろうとすると、手を伸ばしてこちらの肩を、蒼羽が押し止める。
「まだ顔色が悪い。寝とけ」
「平気ですよー、顔色は悪いかもしれないけど。貧血って気持ち悪いのが過ぎたら、後は全然元気ですから」
笑ってみせて起き上がって、蒼羽に説明した。辺りを見回して、自分の靴が少し離れた所にあるのを見つける。蒼羽が立ち上がって、それを足元に置いた。
「あ、ありがとうございます」
右足を靴の中に滑り込ませて、体が硬直する。
鈍痛が、そこから発せられていた。
「・・・どうしよう。足、捻挫したみたい」
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