11.
「こんな事、今までに一度も起こった事がなかったんだ。向こうの人間が、こっちに入ってくるなんて。だから、正直言って、私も蒼羽もどうすればいいのか判らない」
すっかりぬるくなったカップを手にして、ため息をついた。
「さっきの話だと、穴の向こうの人間は、穴が見えないんですよね?あたしはどこからこちらに入って来たんですか?」
首を傾げて言う彼女の言葉にまた驚く。
状況をしっかりと把握して質問をするその様子は、この異常事態に戸惑ってはいるが大いに興味をそそられているようだった。
「ここの穴は大きくて長いんだ。厳密に言うと、この前の通りと、この建物全部穴の中なんだよ。L字型のね。普通の人には、向こうの世界の人には、ここの通りと、この建物は違う物に見えてるはずなんだ。違う物に見えるし、違う物が存在してる。2つの物が重なっている。こっちの人間にはこの家が見えてる。向こうの人間は違う建物が見えてる。だから。だから、君がここの通りに、この穴の中にいる事はありえないんだ」
緋天はガラス扉の外、レンガ作りの通りに確かめるように目をやる。
「でも。でもあたしは表の商店街を歩いていて。それで横道の、ここの通りが見えてました。本当は違う通りが見えるはずなんですよね?」
ベリルはうなずいて、言った。
「そうなんだ。何が原因か判らないんだけど。でも実際、君はここにいるから、私達は事実を受け止めなければいけない。私と蒼羽はここの穴を担当してる。だけど私達だけで、何かを決めるには、事が大きすぎる。上の者に指示を仰ごうと思う。これからどうするか決めるのは、上の人間だ」
びく、と体をこわばらせて、緋天は自分を見た。
「え?上の人間って・・・あたしは殺されるんですか?」
その言葉に思わず苦笑して、首を振る。
「あ、ごめんごめん。そうじゃないよ。君に危害を加えるような事は絶対しない。私達は平和主義だから。そうだな、でも向こうの世界について研究したり、穴について研究してる連中には、興味深い出来事だから。協力を求められる事にはなると思う」
自分の返事に彼女は肩をすくめて笑う。
「すいません、勘違いしてびくびくしちゃいました。でも、今失業中ですごくヒマだから。そういうのって楽しそうですね」
「私も。アウトサイドと大っぴらに話す事ができるなんて、夢みたいだ。あ、アウトサイドっていうのは、向こうの人間の事。私達はそう呼んでる」
ベリルは緋天に微笑んで、蒼羽を見た。
「蒼羽。これで良かったかな?もしかしたら、急な雨にも対処するきっかけができたかもしれない」
蒼羽は横目で緋天を見て、足を組み直して言った。
「・・・別に。俺一人でもやれる。必要ない」
その言葉をたしなめようと口を開きかけて、やめる。緋天は蒼羽の横顔を見て、少しうつむいてから、自分を見た。
「えっと、そういえば蒼羽さんは雨に対処する特殊な人なんですよね。なんていう名前なんですか?」
「・・・予報士」
意外な事に。彼女の問いに蒼羽が低くつぶやく。緋天が蒼羽を振り返ってうれしそうに笑う。
「正式には、気象予報士って言うんだ。でも長いから。予報士って言ってる」
「明日、時間あったらまた来てくれる?上からの連絡も何かあると思うから」
ガラス扉を開けて、ベリルは自分を見下ろした。雨はもうすっかりやんでいて、晴れ間がのぞいていた。蒼羽を見たら、相変わらずソファに座ってそっぽを向いている。この二人は正反対だな、と思ったら笑いがこみ上げてきて。眉間にしわを寄せたまま、蒼羽が自分を見た。ベリルも不思議そうな顔をして自分を見たので、それがまたおかしく思えて。
「どうしたの?」
「あ、いや、何でもないです。明日、午後にまた来ます」
慌ててそう言って、外に出る。ふと疑問に思う事を振り返って聞いてみる。
「あの、気になったんですけど。言葉、どうして言葉が通じてるんですか?」
「ああ、これもね、石のおかげ。このピアスに翻訳機能のある石をつけてる。でも石がなくても日本語はある程度話せるよ。この仕事に就く為に勉強してるからね」
左の耳を指して、ベリルは笑って言葉を続ける。
「でも見た目が思いっきり英語圏の人だからね。日本人に日本語で話し掛けても皆逃げていくんだ。そういえば緋天ちゃんは私を見ても普通だったね」
「内心はびっくりしてましたよ?外人さんだ、って。でもそういう事、気にしてる雰囲気じゃなかったから。」
ベリルは苦笑して、空を見上げてから再び自分に目を落とした。そんな彼に頭を下げる。
「じゃあ、また明日。蒼羽さんも。さようなら」
部屋の奥に声をかけた。彼が返事をしてくれる事はあまり望んでいなかったけれど。
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