サンスパングルの白銀姫 1
「サー・クロム」
「またそれ? 名前で呼んで、って言ってるでしょ」
ドアノッカーの音が聞こえて。
きっと彼だ、と確信した。夕刻にベースを去る直前、今日は一緒に食べようね、と囁いたから。言った事は必ず実行するような人物、そんな気がしていた。部屋を片付けておいて良かったと思う。決して期待していた訳ではない。彼がこの部屋を訪れるのは、避けられない事実だと分かっていたから。
扉を開けて、嬉しそうな顔をして立つベリルをそう呼んだのは。自分をしっかりと保つ為。これから彼は、その言葉通りに、ここで夕食をとるのだろうから。その間、変な方向に行かないように、自分という存在を認識しておきたかった。つまりは、彼の部下であるという自分を。
「まあ、いいや。とにかく入れて。ほら、いつまでも開けとくと寒いしね」
呆れたように溜息を吐いて、名前で呼べという彼に。何も返さず黙っていたら、にこりと笑ってこちらの体をくるりと回して背を押す。そのままあっという間に部屋の中へと侵入してきた。背後で聞こえた扉の閉まる音が、何となく腹立たしい。
「辛いの平気?」
「あ、はい」
台所まで移動して、手に持った袋から食材を取り出すベリル。何気なく問われたそれに、何気なく答えてしまった。それを恥ずかしく思っていると、小さくくすりと笑われる。
「はい、アルジェの。手伝ってよ」
俯いたところで、彼が目の前に立つ。途端に回された腕が背中で動いて。昼間使用していたエプロンを、その手で再び着用させられているのだ、と気付いたのは、腰の上でリボンが結ばれる感覚が訪れてから。
「真っ赤だなぁ。ぎゅ、ってされると思った?」
「ちがっ、思ってません!!」
本当はそう思ってしまったけれど。必死で否定して、その腕の囲いから離れようと後ずさる。
「素直じゃないね」
まるでこちらの動きを読んでいるかのように、背中に大きな掌が当たった。そのまま軽くベリルの方へ引き寄せられて、頬にもうひとつの手。逃げられない。
ふ、と笑んだその唇が近付く。反射的に固く目を閉じて。
「・・・うーん。やめた」
ぱっと離れた温もりと、その声。いつもの笑みを浮かべた彼が、自分のエプロンを身につけていた。
「今日のメニューはカレーです。アルジェはサラダ係ね。はい、開始」
キスを待っていたつもりなんて、少しもない。
テーブルの上に乗せられた野菜に、言われた通り手を伸ばした。
「行けません」
「なんで?」
「私が参加できるようなものではないからです」
断られるのは、分かっていた。今、正に。目の前で吐き出された言葉を使われるだろう事も、予想がついていた。食後のお茶を用意して、そろそろ帰らないのだろうかという目をした彼女を、ソファに導いたのは、この為だ。ゆっくりと、説得する為の。
「残念ながら」
我が家の毎年恒例となっている、年末のパーティー、と呼ばれるイベントは、そうそう軽いものではない。
叔父の一家との共同開催。集まるのは、同じ業界の人間から、上流階級の、いわゆる貴族と言うべき家の人間、それから家族の個人的な友人・知人。招かれるだけで、一種のステータスとなりうるらしい。
まずは、ごく普通に言ってみた。そうする事は無駄であると知りながら、年末のパーティーに来てくれ、と。アルジェもヴァーベインの娘であるから、その言葉がただのホームパティーでないと知っていたようだ。だから、即座に断ってくれた。少しも迷うことなしに。
こんな事は、想定内。
養家と縁を切ろうとしている彼女が固辞するのは、わかっているのだ。
それ故に、切り札を使わせてもらう。
困ったように目を泳がせるアルジェに、もう一度口を開いた。
「拒否権はないよ。これは使いたくなかったけど、断る君に最後の手段」
正直言えば、厄介な事この上ないが。
何かを公式にしたい場合の、通過地点でもあるから。大いに利用価値のあるもので。
「上司命令です」
彼女の水色の目を捕らえる。
吐いた言葉にどうすればいいかと今更あがいているようだった。
「年末はサンスパングル家で過ごす事。緋天ちゃんのお披露目もするんだから、ちゃんと来てよ」
君が来ないと緋天ちゃん、右も左も判らなくて泣いちゃうから。
そう付け足すことで、強引な命令に反発しようかと悩む彼女に、とどめを刺した。
「わかり、ました・・・」
「必要なものはこっちで用意するから。よろしくね」
がくりとうなだれた彼女の後頭部に声をかける。笑みがこぼれるのを、止められそうになかった。
今年のパーティーにアルジェを招く。
これは今の自分に絶対に欠かせない事で、彼女が来なければ何も始まらないから。
「さて。明日は何が食べたい?」
約束は、取り付けた。
ここからは、アルジェに自分を見てもらう為の時間。帰れと言われるまで、帰りたくない。
「・・・では、私の上司の嫌いなものを明日の夕食に」
「言うね」
どんな男もたちまち跪いて愛を捧げてしまう、そんな笑顔を浮かべた彼女が、つぶやいた。
「でもね。再び残念ながら」
にこやかなアルジェに。
自分の勝ちだ、と笑い返す。
「嫌いな食べ物って、ないんだよね」
「っっ」
かみしめた唇に、今すぐキスをしたい。
そう思ったけれど、その先を望みそうだったので、伸ばしかけた手を引いた。
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