空を仰げば 8

 

 ゆらゆらと漂う小船の上から、いつまでたっても降りられないような。

 気持ちよさとは縁遠い、妙な感覚が頭の奥を刺激していた。

 暑くてたまらない頬と額に、幾度か冷たいものが触れて。それを与えたのは何だろう、と目を開けた。開けた時に目に入ったものと、耳に届いた柔らかい声。意外であるはずなのに、どこかでそれを認識していたのは、はじめに目を覚ました時にベリルの発していた言葉を覚えていたから。

 何か得体の知れない安堵感に包まれ、そして相変わらず消えない眠気に促され、すぐに目を閉ざしていた。

 

 

 ぼんやりとする頭で、上半身を起こしてみた。

 途切れ途切れの記憶をそうして呼び覚まして、窓の外の夕焼けに気付く。薄暗い室内に差し込む赤い光は、どうしようもない寂寥感を投げかけて。確かに自分の額に触れていたはずの人間を、無意識に探す。見回した室内には誰もいない。

 

「・・・っ」

 

 こんな風に夕暮れに怯えてしまう自分を笑い飛ばしたいのに。

 それができずに、ただ何かの安心を求める。

 

「・・・っ、あ・・・てん!」

 

 必死で出した声は弱々しい響きしか持っていない。

 もうそんな事を気にしていられる余裕すらなかった。

 

「〜〜〜っ、緋天!! 蒼羽!!」

 

 呼べば来るだろう、とそう思うのに。

 この不安は何だ。静まり返った空間に、自分の掠れた声だけが融けていく。

 少しも生物の音がしない。誰かがいる気配がしない。

 

「っ緋天!! 何してんだよ!!」

 

 早く来いと念じながら、この寂しい空間にいることが耐えられず、ベッドから降りた。途端に襲う眩暈と、普段は気にしたことのない体の重さに耐えられず、みっともなく膝をつく。咄嗟につかんだシーツがずるりと出てきて、それが立ち上がった足にまとわりついた。

 振り返れば覆いかぶさってくるような夕陽。

 禍々しい赤にしか見えず、その光の届かない暗い影は薄気味悪い。

 

「っ、う、ぁ・・・」

 

 込み上げる涙が、更なる恐怖を呼んで。

 派手な音を立てながらドアを開けた。

 

「・・・〜〜〜っ、・・・蒼羽っ、っ緋天・・・!」

 

 転がるように廊下に這い出て、二階に向かって叫び、人がいる確率の高い方へ。灯りのない部屋に、誰も座っていないソファがあっけなく見えて、そこで足がもつれて再度膝をつく。フローリングに打ち付けた場所が痛くて、また何かが込み上げる。

 誰か助けてくれ、と言いたいのに。

 どこにも人が見当たらない。

 

「っ、ぁ、あ、・・・っう・・・」

 

 このままここに捨て置かれるのだろうか、消えてなくなるのだろうか、と思った瞬間。

 カタ、という小さな音と、冷たい風を感じた。

 

「シン君!?」

 外に通じる扉が開けられたのだ、と理解したのと。

 探し続けていたものがようやく与えられる、と思ったのは同時。

「大丈夫!? 蒼羽さんっ」

 駆け寄ってきた彼女が焦った声でその後ろの蒼羽を呼ぶ。

「シン?」

 珍しく動揺したような声音と表情。それを表に出したまま、緋天の横で彼は膝を折った。上から検分するようにこちらを見て、その手を伸ばして。暖かい手が腰に触れ、視界が上へと移動する。腹部に当たるのは堅いもの。

 パタパタと音を立て、小走りの緋天が横をすり抜けていく。蒼羽の肩の上にかつがれるようにして運ばれているのだ、と気付いたのは、後ろ向きに進む景色から。

 こんな感覚は初めてで。

 どこか、懐かしくて。どこか、切ない。

 呆然としている内に、あっという間に部屋に戻った。

 

「あ、待って。シーツ変えるね。シン君、ちょっと座ってられる?」

「降ろすぞ」

 先ほど乱したばかりの寝具。それを見て緋天が蒼羽に制止をかける。体の前面から蒼羽の声が直に響いて、背を支えられながらその言葉通りに椅子へと移動していた。怒っているわけでもなく、冷たくあしらっているわけでもなく。暖かいとさえ感じられる声色。

「・・・何で大人しく寝てなかったんだ?」

 緋天が忙しく動き回るのを見てから、彼がそう言って目を合わせる。

 無表情なんかじゃない。

 調子の悪い自分が、緋天の手をわずらわせる事に嫌悪感を感じてるわけでもない。

 彼はただ、困ったように見ていた。

 

「寂しかったんだよね」

 

 答えられなかったそれを。

 さらりと緋天が口にした。ふわりと広げた毛布を二つに折って、シーツを再度伸ばして。

 蒼羽が静かに目を見開いて、驚いた顔を見せたけれど。

 それを恥ずかしいと今更思う必要はない、と。そう思った。

「ごめんね。良く寝てたから起こさなかったの。着替えを取りに一旦家に帰ってただけだよ」

「・・・うん」

 

 それならいいんだ、と。

 置いて行ったわけじゃないなら、いいんだ、と。

 

 そう言いたいのを、一言に詰め込んだ。

 彼女の指し示す、折られた毛布とその下のシーツの間まで、ふらふらと歩いて寝転がる。すぐさま優しくかけられる暖かな毛布と、目に見えない感情。

「すぐおかゆ持ってくるから、まだ寝ないでね? 朝から何にも食べてないんだよ。ご飯食べたら、パジャマも替えようね」

「うん」

 上から見下ろしてくる緋天に頷いて、また涙がこぼれそうになった。

 柔らかく微笑む彼女の顔が視界から外れて、無意識にそれを追う。蒼羽だけが、ついてこれない、とでも言うように戸惑った顔を見せる。

それでも、当然と緋天の後を追おうとする蒼羽が背中を見せて。扉を開ける緋天は彼に振り返ってにこりと笑う。

「蒼羽さんは、シン君についててあげて?」

引き止めたくて、ただ彼女をじっと見ていた。それを察したのか、緋天が蒼羽を見上げる。心なしか、蒼羽の肩がぴくりと揺れた気がした。緋天の視線だけで、彼はその意向を素直に受け止める。そう気付いたのは、渋々といった様子ではあったが、蒼羽が体をこちらに向けたから。

 

ほっとしたように微笑む彼女を見送って、彼は先ほどまで自分が座っていた椅子に腰を下ろす。夕日が差し込んでいた同じ部屋。まだ室内は赤かったけれど、もうそれが怖いとは思わなかった。

彼が黙ってこちらを見やって。

 

ふ、と。

小さく微笑んだ。

 

「随分」

 途中で言葉を切って、今度はくすりと笑う。

「素直になったものだな」

 

 今までの自分だったら、反発する言葉を即座に返していたと思う。彼に笑われた事を恥ずかしいと思い、自分の行動を呪ったはずだ。

 けれど。

 そうするだけの意味は、どこにもないのだ、と。

 もうとっくに気付いていた。

 

「・・・オレ、しばらく子供になる」

 

 何かを失う前に。何か大事なものを逃す前に。

 原点に戻りたい。

 説明するのは多大な労力を要しそうだったから。ただそれだけを言って、毛布をかぶる。

 

今まで聞いた中で一番。

蒼羽の、楽しそうな大きな笑い声が。

かぶった布の向こうから、聞こえた。

 

 

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