続・月夜のジレンマ 1
「なんだ、緋天は行かないのか」
「いいの。緋天ちゃん、お母さんたちお買い物行って来るからね」
「はーい。行ってらっしゃーい」
「あんまりごろごろしてちゃダメよ。恥ずかしいでしょ」
「・・・はぁい」
上から降ってきた声に、ぼんやりする頭で答えて、楽しそうな両親を見送った。
腰から下はこたつの中。上着はもこもこのカーディガン。
至極幸せな、ぬくぬくした空間。
「・・・ひま」
先ほどから続けている、雑誌をぱらぱらとめくり続ける行為は、確かに楽しいのだが。
もう、三日も蒼羽に会っていない。今日を勘定に入れるとするなら、四日目で。
「ひまー」
一人きりで、二度目の言葉を吐き出してみる。
お正月は家族と。そんな当たり前の事が、実はこんなにもどかしかったのか、と始めて知った。何を見ても、何を食べても、蒼羽がここにいれば、とどこかで思う自分がいた。家族を優先してくれた蒼羽は、明日、母の招きによってこの家に遊びに来てくれるはずなのだけれど。
もう、今すぐにでも会いたい、などと思ってしまうのが何やら気恥ずかしい。
もぞもぞとこたつの中にもぐりこんで、うつ伏せで雑誌の中の小物に目を落とす。
視界の中に、淡い夕焼け色を発する指輪が入って、少し笑みがこぼれた。
がちゃ、と鍵を回す音と、扉を開閉する音。それから、早足気味にリビングに近づく足音。
友達と会っていた兄が帰ってきたのだろう、と思っていると。
「緋天」
「ひぁっ!!」
耳をくすぐる甘い声に驚いて。
長い足がまず目に入る。にこりと笑む蒼羽の顔がこちらを見下ろしていた。
「っっ、蒼羽さん!」
最悪だ。
こんなだらだらしているところを、彼に見られてしまった。急いで起き上がり、それからどうしていいのか分からなくなった。意味もなく、両手を上げ下げしていることに気付いて、余計に恥ずかしくなる。
「・・・っん、っ、ぁ」
慌てている自分がおかしかったのか、蒼羽の口から笑い声が漏れると同時に、膝をついた彼に引き寄せられる。上からかぶさるようにキスをされ、何かが満たされていく。
「驚いたか?」
何度も頷いて、肯定の意を見せる。
「すぐそこで祥子さんに会って、鍵を預かった」
ちゃり、と手の中からキーを出して渡されるが、それよりもまず。
「明日じゃないの!?」
「泊まらないかと誘われた。シンもあとから来る」
「またお母さん・・・」
自分の知らないところで、蒼羽と連絡を取り合って、と。口にしかけてやめる。
母の勝手な行動は少々疑問を覚えるが、会えてうれしい事に変わりはない。しかも、泊まってくれるというから。
「何してたんだ?」
「え、えっと、あの、・・・ぼんやり」
ぼんやりしていたなんて申告するのは気が進まなかったが。にこりと笑う蒼羽の顔を見ていたら、勝手に口が動いてしまう。
「あ! あの、お茶飲む?」
「ん」
こたつから抜け出して、恥ずかしさをごまかす為に立ち上がった。自分がいた場所を蒼羽に座るように指し示して、いつもより速い鼓動を打つ心臓をなだめながら、食器棚からカップを取り出した。先ほど自分が飲むために淹れておいた保温ポットから、琥珀色のそれを注いで。ついでに自分のマグカップにも注ぎ足す。
顔を上げると、蒼羽の視線が絡みつくように自分に向けられていることに気付く。けれどそれに反応してしまわないように、そっとトレイを運び彼の隣へ。
「違う」
一瞬前まで上機嫌に見えた蒼羽が、いつものように眉を寄せて低く呟くそれに。
どきりとしながら、何をしてしまったのだろうと不安を覚えはじめていると、彼の腕があっという間に体を引き寄せていた。頭のてっぺんに軽く口付けられてようやく。蒼羽の足の間に納まったことを知る。
背中に彼の体温。
うれしいけれど、両親が戻ってきたら離れなければならない。
腹部に回された蒼羽の右手が、それ以上何かをしないように、と過剰とも思える心配をして、こたつの上にあった紙箱を開けて彼が取れる位置に移動させた。その中身はチョコレート。しばらくそれを食べていてくれれば、何もされないのでは、という勝手な推測で。
「あのね、これお兄ちゃんが買ってきてくれたの。美味しいよ?」
普段から、二人でいる時に蒼羽はあまり話をしない。
今日は特にそれを感じた。言葉で何かを伝えるよりも、彼の態度や表情すべてが、とにかく自分に向けられていたのだ。自分の為だけに生み出された蒼羽の感情。浸ることを恐れて、何とか彼が別のことを、その意識が少しでも他に向くことを望んでしまった。
カップに手を伸ばし、それを飲んで。
長い指先で勧めたチョコレートをつまんだ蒼羽にほっとした瞬間に。
「・・・え、あ、」
唇のすぐ前に、それが運ばれていた。蒼羽の口の中ではなく。
食べろと促しているのだ。今まで何度か似たような状況に陥ったが、これほど焦りを感じたことはなかった。それだけ蒼羽の無言の要求が、随分と色濃い空気を発しているように思えた。
「む、・・・もぅ」
素直に従う自分が恥ずかしい。甘いチョコレートの、すでにその味を知っているからこその誘惑に負けたのか、それとも彼が纏う色気に侵されたのか。頭上でくすりと蒼羽が笑う気配。
嚥下したところで、そのまま指を唇に乗せられる。彼の体温で溶けた焦げ茶のそれを舐めない事には、蒼羽はずっとこのままだ、と。
もう暖房なんていらない、と思えるほどに熱い頬をもてあましたまま、蒼羽の指をきれいにする。
こめかみのあたりに、ぴたりと顔をくっつけた蒼羽が、じっとそれを見続ける。
「もう、もうっ、蒼羽さんのばかぁ・・・」
嫌だと思えないのは、間違いなく蒼羽のことが好きでたまらないからで。
彼の腕の中にいる時間を拒否できない。膨れた頬をかすめるキスが、次は甘さの残る唇に落とされると分かってしまった。
「っ、や・・・」
蒼羽を止めるために、当初の目的を達成しようと。
近付く彼の唇にチョコレートを当てる。その眉根がまた寄せられるかと思ったが、笑みを浮かべて手をつかまれた。
「あ、・・・っ、あの、ね」
ゆっくりと動く、蒼羽の口。
そこに触れる自分の指に、彼のその動きが直に伝わってきた。時折舐められる、その感触も。
「あの、えっと、・・・あ」
何か言って、この場の妙な空気を変えなければ、と。
焦るだけで何も出てこない、そこへ。
「時間切れだ」
先ほど蒼羽が入ってきた時と同じ音が玄関から響いた。
ただいま、という兄の声。
「っ、ん」
ちゅ、と軽い音を立てた、甘い香りのキスを最後に。
蒼羽の顔と、暖かい体温が離れていく。同時に、リビングに近付く足音。
「緋天?っ、やっぱりお前か」
「う、あ、おかえりなさい」
少々不機嫌そうな兄が蒼羽を見下ろして。
「お邪魔してます」
よそいきの顔をした彼が、にこりと笑った。
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