暑い夏は涼しい場所で 9
嫌だった。
蒼羽が複数の女の子に囲まれているのを見た瞬間に、どこか小さな棘に刺された感じがした。それが一方的なものであっても、蒼羽が迷惑そうな表情を浮かべていても。蒼羽が好きなのは自分なんだからと頭では判っていて、それを言い聞かせるようにしても。
嫉妬心よりも、そう思う自分への嫌悪が先に立って。早くあの場から抜け出したかった。
ホテルの医務室で、擦りむいた部分を消毒してもらい、もやもやした気分のまま、部屋へ向かう。蒼羽が女の子達に向けた、冷たい表情が頭をよぎる。近頃は、蒼羽がそんな顔をする事すら忘れていた。
久しぶりに見たそれは。怒りを伴っていたのだろう。
出会った頃に感じた恐怖が少し思い出される。
「ただいま・・・」
扉を開けると。憮然とした表情で、ソファに座っていた蒼羽が顔を向ける。
「平気か?」
「え?うん、ただの擦り傷だよ?」
「じゃあ、何でそんな顔をするんだ」
「・・・・・・」
「緋天」
黙りこんだ自分に、蒼羽が穏やかな声を発する。
「なんか嫌だったの・・・蒼羽さんが囲まれてるの、見たくなかった」
吐き出したそれは、きっと彼を困らせる。
そう判っていても、言ってしまわなければ蒼羽は納得しないだろう。
小さい溜息が耳に届いた。
「・・・おいで」
呆れ果てているだろうか、と彼を窺うと、左手を伸ばしてくれた。蒼羽が差し出したその腕に、自然と足が引き寄せられる。
すぐに柔らかく抱きしめられて、涙が出そうになった。
いつから自分はこうなってしまったのか。
蒼羽が精神の安定剤のように、麻薬の中毒のように、この心地良さを知ってしまった今は。蒼羽を知らなかった頃のように過ごせない。
人前でキスをするのも。
当たり前のように手をつないで歩くのも。
そんな風に誰かと付き合うなんて、考えた事もなかったのに。
「どうすれば緋天の機嫌は治る?」
耳元で蒼羽が優しい声を出す。罪悪感が浮き上がって、首を振った。
「違う、あたしがワガママなだけなの。そんな事言ってもらう資格ないよ・・・」
こんな時に泣くのは、卑怯以外の何でもないのに。髪をなでる、蒼羽のあまりに優しい手つきに涙がこぼれる。
「我が侭でいい。緋天の興味がどこかに移る方が困る」
こぼれ落ちた涙を、ついばむように蒼羽の唇がかすめながら言った。
「何でもいいから。言ってみろ」
自分が間違っていなければ。
多分間違っていないだろうけれど。
緋天の不安は嫉妬心で。うつむいて涙をこぼすその顔を、自分だけに向けられた緋天の感情を、とめどなくあふれる愛しさで満たしてやりたかった。
「・・・・・・変な事言ってごめんね」
緋天を安心させたくて、どうすればいいか聞いてみたら。ますますうつむいて、申し訳なさそうにする。
「謝るな。面倒だとか迷惑だとか、そんな風に思ってないから。むしろその逆だ。俺が満たされる。だから。緋天が今どうして欲しいのか、言ってくれ」
苦しい程に、愛しくて。こんなにも想っているのに。
「じゃあ・・・じゃあ名前呼んで?」
おそるおそる口に出したその言葉に苦笑がもれる。
「緋天」
「ん」
耳元にささやくと、緋天がほんのりとした笑顔を浮かべた。
そこでふいに気付く。
ああ、多分。
「緋天」
何かの拍子に幾度か彼女から貰った言葉を、自分は返していなかった。
自分だけが満足感に浸って。
「緋天」
同じものを緋天が欲しがるなんて、考えもしなかった。
「好きだ」
こんなに簡単な事だったのに。
頬を染めた緋天を目にして、それが確信に変わる。
ジグソーパズルのピース。
最後のひとつがぴったりと噛み合うように、緋天と心がつながった気がして、充足感が訪れた。
END.
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