43.
「蒼羽、さん」
その声に草の中から跳ね起きた。足元に緋天が立っている。
「・・・あの」
困ったように言いよどむ、その顔が、あまりに愛しくて。
緋天の細い手を引っ張った。
「うわっ!・・・え?」
状況についていけずに、疑問の声を上げるのだろう。
慣れてないのだ、そう思いたい。
「蒼羽、さん、ちょっ、これ」
あわてる彼女を腕に抱きしめて、その感触を楽しんだ。
体の内側に甘い疼きが生まれて、苦しいほど、切ない。
ふいに、緋天が体の力を抜いて。
それが嬉しくて、さらに抱きしめる。
どうしてこんなに、と。
理由のつかない感情に振り回されて、勝手に体が動いて。以前ならば考えられないほどに、他人の、緋天のことが気にかかって仕方なかった。
きっともう、戻れない。
そう確信を抱いたのは、彼女が黙って自分に身を預ける、それに果てしない満足を覚えたからだ。それを知らなかった頃にはもう戻れない。緋天のぬくもりを知ってしまったから。
「・・・緋天」
蒼羽が自分の名前を呼んで、首筋に顔をうずめた。
彼は何かを伝えようとしている、と思って、黙ったままでいる。
何故、抱きしめられるのか。
間近で聞こえる蒼羽の吐息、体に回る暖かい腕。力を入れて拘束されているわけでもないのに、どうしても抜け出せなかった。雨の中で感じた、安息地帯。どうして、と問いかける勇気もなく、蒼羽の空気に浸ってしまう。
恥ずかしくて仕方がないのに、蒼羽の次の言葉を待つしかなくて。
「緋天・・・」
そう、耳元でささやいて。
右の耳たぶを、柔らかな何かに挟まれる。甘噛みされた。
ぞく、と。その感触に肌が粟立つ。
体を巡ったのは、途方もなく甘いしびれ。
「緋天。・・・好きだ」
その言葉に、声に、心地よすぎて、目眩がした。
抱きしめたまま、彼女が暴れもせずに、黙ったままだったので。
自然と言葉が出てきた。愛しくてたまらないのだと、伝えたかった。
人に触れる、という行為がこれほど気持ちのいいものだと、彼女の耳を思わず口に含んだところで気付いた。びくん、と震えたその体を。自分のものにしてしまいたくて。
「な、んで、先に言っちゃうんですか、・・・ずるい」
緋天が少し身を引き、頬を染めて、目を潤ませて。こちらを見上げる。
「あたしも、言いたかったのに」
極上の笑みで。微笑んで。
「あたしも、蒼羽さんが、好き、です」
驚いた顔をして。自分を見て。また抱きしめられる。
「そうか」
そう言って、誰も見た事のない、笑顔を浮かべて。
それに見とれている内に。
柔らかく微笑んだ彼は、キスを落とした。
「・・・あの、蒼羽さん」
「ん」
腕に抱いたまま、彼女の髪に口付ける。
首をすくませた緋天が小さな声を発した。
「えっと、幸せすぎて、心臓が破裂しそうなので、別の話、しません?」
真っ赤な顔をした彼女の必死な様子に、どうしても笑みがこぼれる。
「・・・えっと、あの、あ、そうだ!何か欲しい物、思いつきました?」
「もう手に入ったから、いい」
欲しくて欲しくてたまらなかったもの。
たった今、その緋天が手に入ったのだ。
これ以上、何を望めばいいのだろう。眉をしかめる彼女の柔らかな唇に口付ける。甘い感触が体を巡った。
「・・・っ!!・・・じゃなくって。それじゃ困るんですけど・・・」
「・・・じゃあ、そうだな。ちょっと、俺の名前呼んでみろ」
本当に困った顔をする緋天に、思いついて言ってみる。
「???・・・蒼羽さん?」
「そうじゃなくて。呼び捨てで」
「ええ?・・・蒼羽。・・・さん。やっぱりだめ、です。蒼羽さんは蒼羽さんなんです」
「じゃあ、敬語、やめろ。普通に話せ」
「・・・はい。じゃなくて、うん。ってこれがプレゼントでいいんですか?じゃなくて、いいの?」
「いい。充分だ」
本当のところ、次に欲するものは彼女自身なのだけれど。それはキスを落としただけで真っ赤になる、純粋な緋天を混乱させてしまいそうで。せっかく手に入れた彼女に怯えて欲しくなかった。
「うーん、何かあげたいのにな・・・。じゃあ、いいや。頑張って、何か探す」
「ん。・・・帰るか?」
「あ、そうだ、ベリルさんにバレてるんだったー。あぁ、もう、恥ずかしい・・・」
立ち上がりながら、緋天の腰を引き上げる。
そのまま手をつないでベースに戻ると、ベリルがにこにこ笑いながら、門番と一緒に待っていた。
「おめでとー!!良かったねー、上手くまとまったみたいで」
「おめでとうございまーす!」
「・・・何で・・・」
「いやぁ!!穴があったら入りたいぃ・・・」
「何言ってるの、緋天ちゃん。ここはもう、穴の中だよ」
頭を抱えてしゃがみこむ緋天に、ベリルが明るく答えた。
END.
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