矛、そして盾 −5万打記念アンケート企画、おまけ小説−
夕暮れ時。
まだ夏の匂いの残る湿気の多い空気から一転。自動ドアを抜けた先は、適度に冷房が効いていて、汗ばんだ肌に心地良かった。見慣れていたはずのフロアは、どこかよそよそしく感じられる。一人だけなら、このデパートに足を踏み入れる事にまだ抵抗があったかもしれない。
「緋天?」
涼しかった車から暑い空気の駐車場へ出ても、こちらの右手をしっかりと繋いでくれた蒼羽が、ものすごく有難い。首を少し横に倒して、訝しげに自分の顔を覗きこんでくる彼に、大丈夫、という意味で頷いてみる。
無事に一日を終えて、家に送ってくれるという蒼羽に甘え、彼の車に乗り込んでしばらくした頃。
運転中の蒼羽の代わりに、自分の携帯へと電話をかけてきたベリル。彼は切羽詰った声で、TV録画用のビデオテープを蒼羽に買ってきて欲しい、と口にした。ベリルは電話の向こうで、手を離せないんだ、と言って、値段も品質も高い商品名を指定。蒼羽に伝えると、彼は心底面倒そうな表情を浮かべて嘆息した。
大型店でなければ置いていないと判っていたので、このデパートならあるだろうと蒼羽に教えたのだ。その時点で車が走っていた位置からも近くて、寄り道する事を提案した。
彼と一緒にいられる時間が少しでも増えるのは嬉しかったけれど。
行き先は、以前、自分勝手にアルバイトを辞めた店がある場所。蒼羽に諭された後、一度だけ謝りに訪れたのだが、やはり後ろめたい思いは拭いきれなかった。
正面玄関を通ってきて、自分が今立っている、吹き抜けの広場。
左に行けば、家電製品や生活雑貨、食料品のフロア。右に行けば、何度も行き来した、テナントの入ったフロア。
ベリルの用事を済ませるだけなら、左に進むだけ。右側に足を運ぶ事はない。
「・・・・・・」
知らず知らず、蒼羽とつないだ右手に力が入っていた。動かない自分を、少し目を細めて不思議そうに見ているけれど、ただ黙って、待っていてくれる彼。
「・・・蒼羽さん」
「ん?」
「あの、・・・あのね?蒼羽さんがお買い物してる間に、前にバイトしてた所に挨拶してきていい?」
ここで蒼羽と一緒に左に進めば、またひとつ、逃げる事になるような気がして。
優しい目で見下ろしてきた蒼羽を見上げる。一人でまたここへ買い物にでも来れる、そんな気分になる為の一歩を手に入れたいから、と。
「えっと、テープが売ってるのはこっちで、バイトしてたお店があるのはあっちなんだけど・・・」
彼の小さな微笑は了解の意だと捉えて、空いた左手で進む先を指差す。
「判った」
頷きながら蒼羽がつないでいた手を離して。素早く、本当に一瞬、こめかみにキスを落としてくれた。
買い物客がたくさんいる中で。いつもの蒼羽なら、自分が困るだろうと判断してそういった事はあまりしないのだけれど。今は、彼が自分の躊躇いや後ろめたさを判って、それで、元気付けるような、そんな合図。
「入れ違いにならないように、緋天は動かないで待ってろ」
「うん。じゃあ後でね」
足を動かして、蒼羽に背を向ける。
先程まで包まれていた右手が、心許なさを訴える。
振り返ってみたら、蒼羽がにっこりと笑って見送ってくれているのが見えた。
「はぁ〜」
左側で、派手に溜息を吐く音が聞こえた。
発信源の、自分よりも10歳若い、毛先をワックスで立てた髪型の男を見る。彼がこの店でアルバイトを始めてから二ヶ月も経っていないのに、カウンターの半分を作業台に、慣れた手つきでPOPを作成していて。
「何だよ、その目」
黙々とその作業をしていたはずなのに、彼の目は恨めしそうに自分を見ていた。
「店長〜、何ですか、その自分は何も判りません的な素振りは。だいたい、店長がオレの天使を虐めるから」
「・・・またその話か。いい加減、諦めてくれよ」
「はっ、男としてどうかと思いますよ、そんなお客様第一な態度」
「あのね、ここは思いっきり客商売なの」
ぶすっとした顔で自分に遠慮なく文句を言う彼。いつもの事なのだが、そんな風にされても不思議と腹はたたなかった。無邪気というか、憎めないというか。客の前ではにこにことするので、女性客の評判もすこぶる良い。
「そんなだから彼女がいないのよ」
「増田さん・・・何で知ってるんですか・・・」
カウンター前の、小さな菓子を掬い上げるゲームの中身を補充していた副店長が、鍵を閉めながらこちらも不機嫌な顔で言ってくる。彼女は自分よりも年上で仕事もできるので、尊敬すると共にどこかしら畏怖の念を抱いてしまう。
「見てれば判るっての。私も井原君の意見に賛成だからね。ちなみにパートのお母様お二人もそうだから。女からしたら、店長のあの対応ってかなりショックよ」
あちこちから、ゲームのサウンドが飛んでくる。賑やかな店内で、眉をしかめる増田と、横で彼女の言葉に頷く井原の視線が痛い。彼らが口にしているのは、5月の初旬に辞めてしまった女の子の話題。彼女は仕事中に客に絡まれ、思わず相手を撥ね退け、その勢いで転ばせてしまったのだ。
自分達は客にサービスをする側だから、冷静でいなければ駄目だったのだ、と。デパート側の人間の手前、厳しく彼女を叱ったのだけれど。それをここの店員全員に非難された。表立って言ってきたのは、副店長の彼女だけだったが。増田以外の店員は、その後の自分への態度が少し冷たくなったせいで判った。あげくの果てに、当時その場にいた常連の客にも、バイトを辞めてしまった彼女が可哀想だと、いまだに文句を言われる始末。
常連客の一人だった井原が、高校卒業後の進路が決まったからと、アルバイトに応募してきたのも、そもそもは彼女との関係をもっと近しいものにしたかったからで。採用された時には既に本人が辞めてしまっていたので、何かにつけて、こうやって恨めしい顔で見てくるのだ。
「・・・井原は他にモチベーション持ってくれよ・・・」
「はぁ?何を言ってるんですか、このモテない店長は。オレの天使は一人しかいないんだよ!」
「まぁね・・・でも私は澱んだ人間がいっぱい来る場所で、あの子を働かすのって心苦しかったのよね。だから緋天ちゃんが辞めた事は良かったと思ってるんだ・・・いつもにこにこしてたけど、たまーに辛そうな顔してたし」
「あー、その気持ちはオレ判りますよ・・・」
何となく、2人の会話でしんみりとしてしまい、沈黙が訪れる。
確かに彼らの言う事も正しかったのだ。優しい女の子だったから、ああやってきつく言う必要はなかったと今では後悔している。辞めた後に、しばらくして彼女が謝りにきた時に、ものすごく心が痛かった。
「・・・こんにちは」
煩いとも言える店内で、彼女の泣きそうだった表情を思い浮かべていると、小さな声が耳に入った。カウンターを挟んで目の前に立つのは、当の本人。
「え、・・・え!?緋天ちゃん?」
隣で目を丸くした井原が大声を出す。補充用のカゴを抱えた増田も同様に驚いた顔で彼女を見ていた。もちろん自分も。
「あ、えっと・・・立野高校の・・・」
「井原っす。オレ、ここのバイトになったんですよ!」
当時は客だった彼が今は店の制服を着ているから驚いたのだろう、彼女は戸惑いがちに井原と挨拶を交わしていた。それに我に返って、増田は嬉しそうに笑う。
「びっくりした・・・元気そうね。今日はどうしたの?」
「ビデオのテープ買いにきたんです。ついでにちょっと覗いてみようかなって」
「そう・・・なんだか綺麗になった?ちょっと雰囲気変わったのかしら」
「ええ?そんな事ないですよ!」
増田の言葉に首を振る彼女。否定はしているが、彼女の雰囲気が変わったと、自分も思っていたのだ。以前よりも、どこか輝いて見える。
「うーん、何か違うのよねぇ・・・彼氏でもできた?」
「え゛っ!?」
彼氏、という言葉で井原が驚愕の声を上げ、その一方で彼女の頬は赤く染まっていく。
「ははーん。やっぱりそうか。ふふ、真っ赤になっちゃって可愛いんだから。ね、店長?」
俯いてしまった緋天の、その赤い頬をつつきながら。増田が自分へと顔を向けた。思わずその様子に見入ってしまっていた。増田の言う通り、可愛く見えてどうしようもなくて。
「ねぇ、私これから上がるんだけど、よかったらご飯でも食べにいかない?ここまでどうやってきたの?歩きだったら送っていけるし」
「増田さんズルい!オレも行きてーよ!!」
「あんた、閉店まででしょう。しっかり働きなさい。で、緋天ちゃん時間あるの?」
「あ、すみません。一緒に買い物に来た人がいるので・・・今日はちょっと」
「そっか。それは残念。じゃあ、また今度ね。あ、そうだ、今はなんか変わった所で働いてるって聞いたけど」
まだ薄赤い頬を上げて、一生懸命に説明する緋天を、井原と増田が熱心に聞いている。彼らの輪に、何となく入りそびれて、カウンターの汚れた部分に目を落とした。以前とは違う緋天に話しかけにくいというのが、本音だろうか。
表面上、笑顔を取り繕って彼女を見やる。
今の仕事が楽しそうなので良かった、と思えた自分にほっとした。
不安そうにする緋天を見送って、家電製品の並ぶ一角へと足を向ける。
彼女の中に残っていた小さな最後の棘。それを抜く為に出掛けた緋天の背中は、自分には寂しいものだったのだけれど。今の緋天に必要な事だからと言い聞かせて見送ったのだ。
棚に並ぶビデオテープを眺めて、製品名を読み取る。
緋天の以前のアルバイト先、そこは彼女と初めて外に出掛けた時、車の中で話していた場所で。その時、自分は偉そうに彼女が間違っていたと言い切ったのだ。お前が悪い、と言って。
3本が一括りにされているものを見つけてから、棚の角に、ダンボールごと高く積まれた10本が一箱になったものを発見した。手に持った小さいそれを棚に戻し、取っ手のついた箱を持ち上げる。レジへ向かおうとして、緋天がこのメーカーの製品は、小さな店には置いていないと言っていたのを思い出した。またベリルにこんな用事を言われるなら面倒だと思い直して、もう一箱を手にした。
緋天が客を撥ね退けたせいで、相手が転んだ。それに上手く対応しなかったのは、緋天が悪いと確かに自分は言ったのだ。そんな事を思ってもみなかったと言って、緋天は反省をし、後日謝りに言ったと自分に報告をして、その時、彼女の髪に触れて、そして。
甘い記憶が甦るとともに、何か引っかかりを覚える。
そもそも、彼女が客を突き飛ばしたというのは、普段の緋天ならありえない事で。その後、相手を転ばせたという事実に驚き、動顛して、すぐに謝りに出る事ができなかったのも、彼女の性格を考えれば、今の自分には容易に想像がつく。そんな彼女を叱った上司は、客商売としては、当然の事なのだけれど。
今となっては、その時点での緋天の気持ちが痛いほど良く判る。当然の事だと頭では理解できるが、相手はあの緋天なのに。厳しく叱るというのはどうなのだろう。
レジを打つ店員にカードを差し出し、そして、車の中で震えていた彼女の声を思い出した。あんな風になっていたのは、叱られた事に対してではなく、それ以前に起こった、客の行動に怯えていたのだ。彼女が相手を撥ね退けたのは、絡まれたからではない。その後に、体を触られたと、そう言っていたではないか。
「っっ、早くしてくれ・・・!」
完全に思い出して、嫌な気分が体を襲う。正当防衛だと、緋天自身もそう言っていたのに。よくも偉そうに、お前が悪い、などと口走ったものだ。重量のある二箱をひとつの紙袋に入れたそれを受け取り、急いで踵を返す。緋天が辞めたのは正解だった。彼女の体に触れた人間が、今もまだその店にいるかもしれない、緋天自身が怖くて近寄りたくないかもしれない。それなのに、何故一人で行かせたりしたのだろう。とんだ愚行だ。
かつての自分の浅はかな考えに、吐き気がする。
一刻も早く、緋天の無事を確認する為に、足を進めた。
客層は、夕飯の買い物客、その子供達が一番多い、この時間帯。
ちらほらと混じる、学校帰りの中高生でもなく。すらりと高い背、シンプルな藍色のカットソー、柔らかそうな麻に似た生地の黒いパンツを身につけた男が、鋭い目で何かを探していた。一目で彼の際立った容姿が判る。店の隅の入り口から入ってきた彼は、首を左右へと向けながら、中央へと進んでくる。首元の鎖が店の照明の下できらりと光った。
「緋天・・・っ」
彼はカウンター前の自分達に目を走らせると、半ば駆けるように早足で近付き、そして増田と井原の間にいた緋天の腕を唐突に引っ張る。後ろへとバランスを崩した彼女の腰を左腕に抱き込んで、もう一度彼女の名を呼んだ。驚いた緋天の顔がすぐに笑顔になる。いきなり現れた彼に、圧倒される気持ちの方が大きくて。増田も井原も自分も驚いたまま何も言えなかった。
「え、え?蒼羽さん?」
そんな自分達に全く目を向けずに、彼女の頬に左手を置いて背を屈め、緋天を心配そうに覗き込む彼。先程と同じ様に、あっという間に真っ赤になった彼女に、ほっとした表情を浮かべ手を離した彼は、ようやくこちらに目線を向けた。
「あらま、緋天ちゃんの彼氏ね」
驚きから一番早く抜け出した増田が愉快そうに口を開いた。それに苦い音の溜息を吐いたのは井原。
困ったように俯く緋天をちらりと見て、彼はにこやかに微笑む。
「お話は聞いています。緋天がお世話になったそうで・・・こちらを辞めてしまったのは残念でしたが、今は当社でしっかりと働いているのでご安心下さい」
唐突に現れ、周りを全く気にせずに緋天だけを見ていた彼が。またも唐突に背筋を伸ばし、礼儀正しく言葉を発した、その変貌ぶりに。またしても驚かされた。丁寧な言葉遣いと、誰もが振り返ってしまうような微笑に、増田だけが緋天とその彼氏を嬉しそうに見ていた。
曖昧に頭を下げていると、少し笑いながら緋天が自分を見る。
「店長・・・あの、前に言った、あたしの対応が悪かった、って教えてくれた人なんです。あの時、店長は蒼羽さんの事、すごい人だね、って誉めてくれましたよね。あたしは、それがすごく嬉しかったんです」
まだ、頬は染まったままだったけれど。
彼女はまっすぐに自分を見て、本当に嬉しそうにしていた。
「あ、そうか、・・・うん、そっか」
しっかりと返事をする事ができなくて。あまり意味のない頷きだけを繰り返してしまう。それでも今、ようやく彼女が本気で自分を恨んでいないのだ、と判った。そう、結局自分が恐れていたのは、それだったのだ。だから、何となく彼女に話しかけづらくて。
「緋天ちゃん。今日が無理なら、今度連絡するから。メールアドレス教えて?ここじゃちょっとまずいからバックルームで交換しましょ」
「あ、はい。蒼羽さん、ちょっと待っててもらってもいい?」
「ん」
隣の蒼羽を仰いでから、彼女は増田と少し離れた倉庫兼、更衣室へと去っていった。自分の中のわだかまりが溶けて、穏やかな気分で彼女達を見送る。蒼羽と呼ばれた彼氏も、愛しそうに彼女の背中を見ていた。その空気は、何とも言えず甘くて、今の自分には手の届かない空気。
「・・・さっきは緋天の手前、ああ言ったけど」
ふんわりとした空間を、カウンター越しに切り捨てる声。この店の中では5メートルも離れれば、完全にゲーム音にかき消されて声が届かなくなる。それを見越していたのだろうか。
鋭い声の発信源が、先程とは打って変わった彼だと気付いて、そちらに目を向ける。
一瞬で、血の気が引いた。
目で、人を射殺すことができるとしたら、それは彼だと言えるのだろう。もし、生きて家に帰れるとするならば。
「お前が責任者だろう?店員の性格くらい把握しておけ。忙しくて目が届かなかったなんて言い訳にならない。だいたい、緋天が人を突き飛ばす事なんて普段ならありえない。客が体を触るなんて、どう考えても許せる範囲じゃないだろうが。この国じゃ犯罪にならないのか。さっさと警備員でも警察でも呼べば良かったんだ。どうせ萎縮してすぐに大人しくなっただろうに。どっちが悪いかなんて、子供にだって判る。悪いのは緋天じゃない。怯える緋天を見てお前は何とも思わなかったのか。それを厳しく叱りつけるなんて狂ってる」
つい、3分ほど前に。
きれいな微笑を浮かべて礼儀正しく挨拶をしていた彼はどこに行ったのか。
怒りをこめて、これでもかと自分を突き刺すその声。すらすら、というのはおかしいかもしれないが、よくこんなに一度に言葉が出てくるなと思うほど、それは並べ立てられていた。
背中を這う、冷や汗。
なんと言うか、彼の存在が、とても大きくて怖い。
「・・・す、すみません」
何か言わなければ、と追い立てられるような感覚に、ようやく謝罪の言葉が出てきた。
それに眉をしかめて、彼は口元を歪ませる。
「何に対しての謝罪だ、それは。もう終わった事だ、緋天はこの先ずっと、ここでの嫌悪感を持ち続けるんだ。お前が今謝ったところで何の埋め合わせにもならない」
おそらく彼は自分よりも年下なのだろうが。
もう、そんな事は何の意味も持たない。蛇に睨まれた蛙、その心境を身を持って理解する。格の違い、とでも言うべきか、圧倒的な力の差を感じた。彼の口が、また何かを言おうと開きかけた、その時。
増田と緋天の姿が視界の端に見えた。それを認めて、彼の言葉は飲み込まれる。
「じゃあ、美味しい所探しておくわね。期待してて」
「はい、お願いします」
緋天の視線が彼の方に向いて、今まで大人しく待っていたとでも言うように、その口元は彼女への微笑へ変わった。
「じゃあ、失礼します。お邪魔しました」
ぺこりと頭を下げた緋天に、増田だけがまともに挨拶を返した。
歩き出した彼女の手を取って、彼も去っていく。慌てて頭を下げて、ようやく金縛りから脱出した気がした。
「・・・め、っちゃくちゃ、怖ぇぇ!!何あれ、マジで怖かった!!」
彼氏の言葉は自分に向けられていたが、運悪く居合わせてしまった井原は、ずっと身動きせずに黙っていた。彼もあの鋭い目線に射抜かれたのだろう。青白い顔をして、腕をさすっていた。
「は?何言ってるの?・・・店長?」
きっと自分も井原と同じような表情をしているはず。男2人の様子を怪訝そうに見やる増田に首を振る。
「何でもないです。河野さんは、ものすごい彼氏ができたなぁって」
「ああ、うん、そうね」
緋天の為なら何だってやるのだ、と全力で圧力をかけてきたようなあの彼に、正直驚いてしまったけれど。彼女にはちょうどいいのかもしれない。きっと緋天がまたここに寄る事があれば、番犬のごとく必ずついて来るのだろう、と想像して、少しおかしかった。
笑ってしまった自分を、井原と増田が少し遠巻きにして、それすらもおかしくて。
何となく、気分が晴れている自分がいた。
「・・・えっと・・・蒼、羽さん?」
「ん・・・」
蒼羽の腕が、背中に回っていた。
家の近くの公園。その脇のスペースに車を寄せた彼が、急に腕を引っ張って、抱きしめられて、そのまま。少しも動かず口も開かない彼に疑問を覚えて名前を呼んだら。返事はするものの、余計に強く抱きしめてくる。頭の上に唇が降りた気配を感じて、何も言えなくなってしまった。
「・・・あそこにいて、平気だったのか?」
ふ、と息を吐いた彼が、力を少し抜いて呟いた。彼の言う場所が、先程いたデパートの、以前のバイト先だと判って頷く。蒼羽が店に迎えに来た時に、自分の顔を覗きこんできたのは、それを気にしていてくれたのだと今になって気付いた。
「・・・・・・一人で行かせた事、ものすごく後悔した。あの時緋天に言った事は、正しい事かもしれないけど・・・今はそんな風に思えない。どう考えても緋天が悪いなんて思えないんだ」
頭の上で響く声が、優しく脳に浸透していった。髪を撫でている蒼羽の手は、ゆっくりと流れていく。
「怖かっただろう?」
彼が指すのは、バイトを辞めた原因となった客の事だろうか、それとも今日あの場に行った事なのだろうか。とにかく、蒼羽の声はとても真面目で、自分の目を覚まさせた彼のかつての言葉を、本気で否定しているようだった。
「・・・今更言っても遅いかもしれないけど、緋天は悪くない」
「でも・・・蒼羽さんが言ってくれたから、あたしは色々すっきりしたの。あの時、言ってくれてなかったら、仕事をする、っていう事がずっと理解できないままで、どんな所で働いたとしても駄目だったと思う」
蒼羽の腕の中で言うそれが、少しでも伝わってくれるといいのだけれど。そう思いながら髪を滑る彼の手の心地良さに目を瞑る。
「緋天がいいならいいんだ。でも今はお前が悪いとは思ってないからな。・・・・・・どこを触られた?」
怒ったような声で付け足された声と同時に。ぎゅ、と背中に置かれた腕に再び力が入って。
耳の上に小さなキスが落とされる。
「・・・緋天。どこだ・・・全部消したい」
ごくわずかに、密着している自分だけに聞こえた、低く小さな蒼羽の言葉。
当時自分が感じた恐怖と嫌悪を、彼も痛いほどに感じ取っているのだと思う。そこまで想ってくれた蒼羽の気持ちの方が、大きくて、嬉しい。
「・・・腰、と・・・そのちょっと下・・・でも今は平気」
嬉しさに少し頬が緩みながら。答えと、蒼羽の心配を打ち消す言葉を出す。
実際に今はその時の恐怖なんて忘れかけている。だからこそ、この前は一人で店長に謝りに行く事ができた。
口にした答えに、浅く息を吐いた蒼羽が背中の手を動かす。触られた部分を確かめるかのように、ゆっくりと暖かい手で腰を撫でていく。
「あの・・・本当に平気だよ?」
その手の動きが、とても熱心に腰の周辺を止める気配もなく繰り返されるので。何だか変な感覚に陥ってしまいそうになり、手の持ち主の蒼羽を伺う。
「俺が平気じゃない」
呼吸をする事を我慢しているような、彼の抑えた声。日は落ちたのだけれど、外は薄明るいし、通行人もゼロではない。恥ずかしさを思い出して、耳が熱くなる。
「緋天・・・、・・・そろそろ行くか・・・」
蒼羽の肩に額を押し付けて、それをやり過ごそうとした。聞き違いでなければ、どこか艶を含んだ彼の声が自分の名前を口にして、何かを言いかけたのだけれど、別の声音で離れる事を告げる。
ちゅ、と音を立てて耳にキスを落とし、蒼羽の腕が緩んだ。そのままキーを回し、流れるように車は前へと進む。見上げた彼の横顔には、苦笑が浮かんでいた。
赤くなった頬に掌を押し当てて、目線を窓の外へ。あっという間に家の前に着いてしまい、何となく寂しかった。蒼羽の左手がシフトとサイドブレーキを操作するのを、ぼんやりと眺める。
「・・・続きは明後日まで取っておく」
視界にあった、きれいな手が消えて、首筋にその感触。
指先が顎をなぞって、いつもの別れの時間よりも殊更ゆっくりと口付けが落ちてきた。
蒼羽の言葉を理解したのは、車を降りて、家の扉に腕を伸ばした時。
ごまかしの効かない顔の赤みを持て余して、しばらく玄関に佇んだ。
END.
アンケート解答&御一読ありがとうございました。
皆様のご意見はしっかりと読ませて頂き、今後のサイト運営に役立てます。ご意見を公開しても良いとお答え下さった方にはサイト上でお返事致しますので、チェックしてみて下さいませ。
さて、おまけ小説はいかがでしょうか?
タイトルの『矛、そして盾』は文字通り、『=蒼羽の矛盾』という意味を込めてつけてみました(笑)一般論を言っていた昔の蒼羽が矛。緋天を好きな今、改めて考えた緋天論(もはや思いっきり緋天サイドな緋天至上主義の彼の意見)を口にする現在の蒼羽が盾。
井原君はちょっとした田舎の不良行動(笑)で、ほぼ毎日お店に通っている内に、緋天の笑顔に癒されたという高校生です。専門学校への進路が決まり、5月の末頃に面接を受け採用されたのですが、肝心要の緋天が辞めていたという運のない子でした。ピュアだった彼女も蒼羽に汚され・・・もとい、蒼羽という彼氏のオプションがついて手の届かないところに。とりあえず仕事自体は好きなので継続するもよう。
店長は仕事一直線な人で、緋天の事件では副店長の増田さんをはじめ、パートのおばちゃん達をがっかりさせた御仁です。皆、緋天が謝りに店に来た事は知っているのですが、その時彼も謝ったと知らないので、冷ややかな視線を受け続けていたのでした。きっと、緋天が今日お店に来た事で増田さんの信用も回復され、今後はおばちゃん達の態度も軟化すると思います。
蒼羽が緋天を一人でお店へ行かせる事はもう2度とありません。
しっかりガードを固め、緋天が行く時は自己申告しなさいと命令しているはず(笑)
限定ページというのも楽しかったので、またいつかやりたいと思います。
ご協力本当にありがとうございました。
2006年2月5日
235
5万打のアンケートのオマケに載せた小説です↑
ほとぼり醒めた頃かなぁと思ったのと、掲示板でもう一度読みたいと仰って下さった方がいたので、有頂天で再アップすることにしました。軽く楽しんで頂ければということで、今後も普通に置いとく予定です。
2006年8月1日
235
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